英国の諜報員マイケル・ベサニーがKGBに接触して協力を提案した際、在ロンドンKGB職員はこれをMI5の罠だと見なして提案を退けた。ベサニーがもう一度ソビエト人に接触する前に、KGBのオレグ・ゴルディエフスキー大佐はその情報を得た。間もなくソ連に協力しようとしていた英国の諜報員は本国で逮捕された。当時KGBはまだ把握していなかったが、英国の変節者が逮捕されたのは、ゴルディエフスキーの密告の結果だった。このKGB職員は二重スパイとして密かにMI6のために働いていたのだ。
幻滅
オレグ・ゴルディエフスキーはソ連の諜報活動史上最も大きな損害をもたらした二重スパイとして知られている。将来の裏切り者がKGBの第1総局に入った1962年当時、東西冷戦の緊張はピークに達していた。第1総局は外国における極秘作戦や諜報活動の実施、諜報員の管理を担当していた。KGBで働き始めた当初から、ゴルディエフスキーはスパイ・ゲームに巻き込まれた。
仕事には他のソビエト人が享受できない利益があった。例えば、第1総局の職員は特別に資本主義陣営の国々に暮らしながら働くことができた。採用されてすぐ、ゴルディエフスキーはデンマークに赴任した。
「私は死亡者や出国者の資料を手に入れなければならなかった。[KGBの]C局[違法諜報担当]が利用するためだ。私は墓地に行って新生児の墓を探し、出生・死亡登録書を得るため司祭のもとを訪れた」とゴルディエフスキーは英国への亡命後に応じたインタビューで語っている。
MI6が正体を隠した若きソビエト人諜報員に接触したのもデンマークだった。ゴルディエフスキー自身、英国のために働く機会を窺っていた。
「私は英国の情報機関のために働きたいと考え、その機会を探っていた。ある英国人――外交官のふりをしたMI6職員――がおり、私を採用したいと考えていた。私は採用されることを望み、彼も私を採用することを望んでいたのだ。1974年、我々は小さな居酒屋で会うようになり、やがて彼は私を我々が以後活動することになる隠れ家に招いた」。
変節者によると、彼がソビエト体制に幻滅したのはフルシチョフがスターリン批判を始め、ベルリンが壁で分断された時だったという。ゴルディエフスキーが寝返った原因が何だったのか――本当にソビエト体制が腐敗しているという確信だったのか、冒険への渇望だったのか、私欲のためだったのか、物質的な利益のためだったのか――確証を持って結論付けることはできない。確かなことは、ヨーロッパで秘密裏に働くスパイを管理する立場にあったKGB諜報員が1974年までにMI6のために働き始めたということだ。
疑惑
1982年、オレグ・ゴルディエフスキーはロンドンで外交官を装って働き始めた。1984年にロンドンを訪れたソ連の政治家ミハイル・ゴルバチョフと短時間出会ったことで、ゴルディエフスキーの昇進に拍車がかかった。彼はKGBロンドン支局の局長代行となり、間もなく肩書から「代行」も外れると期待されていた。
KGB内でのゴルディエフスキーの地位が上がるとともに、MI6にとっての二重スパイとしての価値も上がった。しかしCIAの変節者が逮捕されたことでゴルディエフスキーの活躍に影が差し、モスクワの上官らは彼の忠誠を疑うようになった。
「私は1985年の4月15日から5月1日までの間にオルドリッチ・エイムズに売られた。私は中央から、[KGB在ロンドン]駐在官職の就任を承認するためという、私を召還する意図がはっきり分かる恐ろしい電報を受け取った」とゴルディエフスキーは話す。
ゴルディエフスキーは二重スパイの正体を暴かれるのではないかと恐れつつ、命令に従ってモスクワに向かった。ソ連の首都に到着した直後、彼は上司のグルシコ将軍による尋問を受けた。
「それから2人の屈強な若者が現れ、酒を勧めてきた。どれだけ断っても(…)彼らは言うことを聞かなかった。(…)結局コニャックを注がれ、自分が自分でないかのような気分になった。私の課題はこの状態で耐え抜くことだった。わずかに残った理性の欠片を何とか失わなかった。これが4時間続き、この間尋問が続いた」とゴルディエフスキーは語る。
ゴルディエフスキーはアパートの一室で目覚め、尋問の結果自分が逮捕されていないことに気付いた。取り調べに耐え抜いたのだと判断したが、同時に自分の立場がこれまでになく危うくなっていることを悟った。彼はソ連から永久に逃亡することを決め、ソ連の司法から逃げる必要がある時のためにと英国側が用意していた逃亡計画に従って行動し始めた。
逃亡
二重スパイをソ連から逃がす計画のコードネームは「ピムリコ作戦」だった。
逃亡計画実行の必要性を英国に知らせるため、ゴルディエフスキーはKGBの尾行を撒いてモスクワ中心部で密かに英国のスパイと接触した。こうしてピムリコ作戦が始動した。
計画では、二重スパイの容疑者はモスクワを出てレニングラード(現サンクトペテルブルク)に向かい、そこでフィンランド国境に程近いロシアの北の町ヴィボルグ行きのバスに乗ることになっていた。気分が悪いという口実で、ゴルディエフスキーは途中でバスを降りた。
「私はどこで英国人と会うのか正確には知らなかった。待ち合わせ場所の説明しか得ていなかった」と彼は言う。
森で待つこと3時間、逃亡者は外交官ナンバーの車が2台やって来るのを見た。これが英国側の用意した彼の救出チームだった。
「彼らは曲がり角を利用してレニングラードから同行していたKGBの車から2分ほど隠れることができた。私はそのうち1台のトランクに潜り込んだ。(…)我々は角の向こうからKGBの尾行が現れるまでに走り出すことができた。運転手が大きな音楽を付けてくれたが、それで私の悲しい考えが紛れた」とゴルディエフスキーは話す。
ソ連の複数の検問を抜ける際、英国の職員は外交官ナンバーを当てにした。外交官の車は検問で検査を受けないからだ。意外にもこれが上手くいった。
「我々は(…)国境の検問所を過ぎ、その後約束の通り、運転手が音楽をロックからシベリウスに替えた。そこでフィンランドに着いたのだと分かった」と彼は振り返る。
大胆な逃亡計画は成功し、元KGB諜報員は行き着いた先の英国で現在も暮らしている。ソ連では欠席裁判において国家反逆罪で死刑判決を受けた。マスメディアによれば、ソ連崩壊後もこの判決は取り消されていない。
ソ連から逃亡した後、ゴルディエフスキーは英国のマーガレット・サッチャー首相と面会し、家族との再会についてソビエト政府に働きかけるよう説得したとされる。しかしこれは成功せず、ゴルディエフスキーの妻と子供が彼のもとを訪れたのは1991年にソ連が崩壊した後だった。間もなく夫婦は離婚した。
2021年、82歳のゴルディエフスキーは英国で年金暮らしをしており、メディアのインタビューに応じているが、ロシアの元諜報員らによれば、ソ連とロシアの情報機関に関する機密情報を売って生計を立てているという。
ゴルディエフスキーがインタビューで常々強調しているのは、二重スパイの道を選んだことを後悔していないということだ。