外国で政治犯の殺害を指揮し、スパイ活動を行ったソ連の破壊工作の達人

Sergey Kozhevnikov/Artel, 2012, 所蔵写真
 彼はソ連にナチスの侵略を警告し、ソ連の政敵らを殺害したと言われている。

 情報機関の指示でトルコに滞在していたゲオルギー・アガベコフというソ連のスパイがパリに逃亡した際、ソ連の秘密警察は亡命者に対し、被告不在のまま死刑判決を下した。亡命者暗殺の計画に携わったのは、若き諜報員アレクサンドル・コロトコフだった。彼はその直前まで、ルビャンカのエレベーター技術者にすぎなかった。

技術者

 本来なら、アレクサンドル・コロトコフは有名スパイになるはずではなかった。貧しい家庭に生まれた彼は、モスクワ国立大学で勉強する夢を捨て、夫がいない中で何とか生計を立てようと働き詰めだった母親を助けるために技術者として働くことになった。

 若者の平凡な日々の気晴らしはテニスだった。しかしこれが、本来は平穏であっただろう彼の人生を劇的に変えることになる。

 コロトコフはディナモ・スポーツクラブでテニスをしており、たまに他の選手が試合をしている際にボールボーイを務めていた。その選手の中にいたのが、ソ連の秘密警察、統合国家政治局(OGPU)に勤めていたヴェニアミン・ゲルソンだった。

 「ディナモ協会に参加したい者はOGPUのシステム内で働かなければならなかった。さもなければディナモの選手になることはできなかった」と、ソ連の情報機関について研究している作家で歴史家のフョードル・グラトコフ氏は書いている

 ゲルソンはコロトコフを当時の秘密警察の本部があったルビャンカのエレベーター技術者として雇った。

 おそらく、ゲルソンはただ若者のテニス選手としてのキャリアアップを助けようとしただけだったろうが、現実は別の運命を用意していた。技術者として数ヶ月だけ働いた後、コロトコフは事務員に昇格し、それから程なくして彼はOGPUの現役スパイの助手となった。これがコロトコフの非凡なキャリアの始まりだった。

野放しの殺し屋

 その後間もなく、コロトコフは秘密警察の情報局に入る。

 若きスパイの並外れた素質を評価した上司らは、コロトコフが、外国の政敵に容赦なく対処する国家であるソ連にとって非常に有効かつ危険な人材となることを見込み、彼に投資した。

 コロトコフの最初の標的の一人が、ソ連の情報機関から逃げ出して、機密情報を公開することで儲けていた悪名高いソ連のスパイ、ゲオルギー・アガベコフだった。

ゲオルギー・アガベコフ

 かつてイランの駐在職員だったアガベコフによる機密情報の暴露は、イランにおけるソ連の立場を不安定にし、隠密に活動していた数多くのソ連の諜報員の正体を晒して彼らを死に至らしめていた

 アガベコフ殺害指令を受けたコロトコフは、スペインで盗まれた宝石の密輸の話を持ち掛け、アガベコフをパリの密会場所におびき出す作戦を考えた。元スパイはこの話にまんまと食い付き、スーツケースに詰められてセーヌ川の底に沈んだ

 他の政治犯の殺害も同様にして実行された。コロトコフは、ソ連の保安機関長官のラヴレンチー・ベリヤに宛てた私信で、トロツキー支持者の一人を殺害したという話をしているが、その中で彼は「私は最も邪悪で不快、危険な仕事をしていた」と綴っている

敵陣の背後で

 しかし間もなく、コロトコフの諜報と外国の協力者の発掘の才が、その他の邪悪な才能よりも高く評価され、彼は独ソ戦勃発前夜に極秘任務でナチス・ドイツに送られた。 

 コロトコフの任務は、ナチス・ドイツの潜伏スパイとの連携を確立し、ナチスの軍事研究と軍事開発に関する情報をソ連にもたらすことだった。

アレクサンドル・コロトコフとアドルフ・ヒトラーの補佐を勤めたヴィルヘルム・カイテル

 ナチスがソ連に侵攻する数ヶ月前、コロトコフは来るべき攻撃についてモスクワに警告した。「先述の情報提供者は、ソビエト連邦に対する攻撃は決定事項だと述べた」とコロトコフはベリヤに宛てて記している

 コロトコフの報せによって新たにソ連のスパイが極秘派遣されたが、スターリンはこの警告を無視したことが知られている。 

 果たして戦争が勃発すると、コロトコフは、親衛隊(SS)部隊の隊員によって封鎖・警備されたベルリンのソ連大使館に閉じこめられた。一見身動きの取れない状況で、コロトコフは警備に就いていたSS部隊の隊長を見事に騙して短時間の外出の許可を得た。

 女友達と会うという名目で、コロトコフはナチス・ドイツで活動するソ連の多数の諜報員に会い、報酬と道具を渡して戦時中の任務を続けさせた。

*第二次世界大戦中の最も成功したスパイ作戦についてはこちら 

 さらに驚くべきことに、コロトコフはナチス・ドイツから脱出してモスクワにたどり着いた。彼はそこで敵陣の背後に送り込む新たなソ連人諜報員を養成した。

アレクサンドル・コロトコフ(真ん中)とドイツ空軍の軍人であったハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ

 戦後、コロトコフは占領下のドイツに戻った。「彼は東独情報機関の設立者の一人だ。西独のハインツ・フェルフェ[地位の高いスパイ]とつながりがあったと言えば十分だろう。この人物は『ドイツのフィルビー』と呼ばれていた。彼は[西]ドイツの防諜機関で重要な地位を占めており、ソ連の防諜機関にとって最も価値のある情報提供者の一人だった」とアレクサンドル・コロトコフに関して作家のヤン・エドィナクは綴っている

晩年のアレクサンドル・コロトコフ、1961年

 コロトコフは最期まで政治と諜報のゲームに関わり続け、1961年6月27日に51歳で死去した。当時少将だった彼は、モスクワのディナモクラブでテニスをしている時に大動脈破裂で死亡したのだった。ソ連で最も優れた諜報員の一人として確かに歴史に名を刻んだ。

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