19世紀後半、かつて強大を誇った清帝国に昔日の面影はなかった。じりじりと欧米列強および日本の半植民地になっていき、彼らは自国の利益のために容赦なく、落ちぶれた帝国を利用した。
風刺漫画『中国を分断する諸国』
Henri Meyer清の政治指導者たちは、外圧力に抗することができず、もっぱら自らの権力を維持し、今の状況から何らかの利益を引き出すことにのみ関心を抱いていた。当時、一部エリート以外の中国人は、急速に貧困化しつつあった。
外国の支配に対する中国人の不満は、多くの秘密結社の創設につながった。その一つが「義和団」と総称される人々で、その起源については諸説ある。彼らが行った拳法「義和拳」が拳闘に似ていたので、ヨーロッパ人は彼らを「ボクサー」と呼んだ。
1899年、清帝国において義和団は、「外国の邪鬼」に対して大規模な反乱を起こした。彼らの信じるところでは、「邪鬼ども」は、中国に異質で危険な秩序を持ち込み、伝統的な中国社会の何世紀にもわたる基盤を損なった。「ボクサー」は、キリスト教の司祭を含む外国人や、キリスト教に改宗した同胞を殺害した。
義和団の兵士
Public domain「教会と修道院を破壊し焼いただけでは飽き足らず、『ボクサーたち』は、教会およびその周辺で、正教司祭のほぼ全員と多数のキリスト教徒のアルバジン人を殺した(*アルバジン人は、17世紀以降、中国に定住したロシアのコサックの子孫――編集部注)。わが同胞のキリスト教徒たちの死体は井戸に投げ込まれたが、死者とともにまだ生きている者までいっしょに放り込まれた…。木々さえ切り倒された。『ボクサーたち』は、北京の城壁の外にあるロシア人墓地を破壊し、墓石を壊し、埋葬されていた遺骨を捨てた」
ロシアの外交官イリヤ・コロストヴェツは、北関におけるロシア人司祭たちの虐殺をこう振り返っている。
西太后の政府には、蜂起を抑える力はなく、逆にそれを支持し、列強に宣戦布告したので、いわゆる「八カ国連合軍」の大規模な介入が清で始まった。これは、ロシア、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカ、日本、オーストリア=ハンガリー帝国とイタリアの連合軍だ。
公使館があった地区に進出するロシア軍
Public domain1900年6月、中国人は満州で、ロシア帝国が保有していた東清鉄道を攻撃し、また北京では、各国の公使館があった地区を包囲した。ここに外国の外交官とその家族が避難し、わずか数百人の兵士に守られていた。
「この包囲の2か月間のうち、最初の3週間が我々にとって最も苦しく、先が見えなかった。朝、我々は夕方までに生きているかどうか分からず、夜、顔を合わせても、翌朝また会えるか分からなかった」。事件の渦中にあったウラジーミル・コルサコフ医師は回想している。
兵数で優っていたものの、清軍と「ボクサー」部隊は、戦闘力において八カ国連合軍よりも著しく劣っていた。
東便門を急襲するヤロスラフ・ゴルスキー二等大尉の中隊
Public domain「中国の兵士は臆病ではないが、勇敢に戦うように調練されていない。つまり、自分をコントロールできるように訓練されていない。ヨーロッパ人のように、兵士たることに慣れていなかった」。こうコルサコフ医師は指摘している。
海河の河口にある大沽と天津の占領の後に、連合軍は北京を目指した。北京の守備隊3万人は、日本軍9千人、ロシア軍5千人、アメリカ軍2千人、フランス軍800人、およびイギリスから派遣されたインド人傭兵(セポイ)3千人を迎え撃った。
最初に攻撃したのはロシア軍だ。8月14日夜、ヤロスラフ・ゴルスキー二等大尉率いる中隊が、東便門を急襲し、その警備兵を斬殺。それから配置された大砲が門を破壊した。ロシア兵は門内に突入して足場を築き、ロシアの旗を掲げた。
「大砲が火を噴いて砲声が轟く。わが軍の銃手たちの、耳をつんざく一斉射撃の音がし、中国兵の無秩序な射撃音が響き渡る。ロシアの機関銃の恐ろしい轟音がする。ほの暗い月明かりの下で、何世紀にもわたって黒ずんだ門が、そして千年の歴史をもつ首都の雄大な壁が浮かび上がる…。これがロシア軍による北京への最初の攻撃だった」。ロシア軍の従軍記者ドミトリー・ヤンチェヴェツキーは事件をこう描いている。
他の連合軍は朝になってから北京を攻撃し始めた。終日、日本軍は朝陽門をめぐり、激戦を繰り広げ、ロシア軍に砲兵の援護を求めなければならなかった。戦いの最終段階に米軍も参戦。英仏両軍は、その進路でほぼ抵抗に遭遇することなく市内に入った。連合軍は、公使館区域の包囲を一掃し、翌日までに北京を攻略した。この作戦中、最大の損失を被ったのはロシア軍と日本軍で、合わせて約60人が戦死、約200人が負傷した。
北京を攻撃した米国軍
Hugh Charles McBarron Jr.8月15日、米軍の砲兵隊が短時間砲撃した後で、連合軍は紫禁城の宮殿群を占領した。この一大複合施設から、西太后は既にこのとき逃亡していた。翌日、占領軍は、北京市で略奪をほしいままにし、義和団、清朝政府軍の兵士、さらには民間人を殺害した。この一連の事件の後、連合国は、自分たちが犯した罪を互いになすりつけ、他国に一切の責任を負わせた。
ロシア軍の兵士、北京にて
Dmitry Yanchevesky北京占領の後、ロシア軍は、満州でも敵を破り、一時的にこの地域を完全に支配して、東清鉄道の再建に着手した。1900年9月、西太后は、列強国側に寝返り、清軍に対し、国中の義和団を断固として容赦なく掃討するよう命じた。
義和団の兵士であると疑われている人の処刑
Wellcome Images (CC BY 4.0)一年後、義和団の乱は、概ね鎮圧され、連合国は、清帝国に対し「北京議定書」(正式名称は「北清事変に関する最終議定書」)への署名を強要した。これによると、清は、賠償金支払いを課せられ、武器弾薬の輸入を2年間禁止された。さらに、大沽砲台を撤去し、海岸から北京に至る交通の要衝の多くを、欧米列強および日本の軍隊の占領下に置かねばならなかった。
「北京は、2つの忠実な連合国、ロシアと日本の血と汗で攻略された。両国は初めて、砲火の下で、戦友たる経験をもった」。ヤンチェヴェツキーはこう書いている。
しかし、露日両国の同盟関係は長くは続かなかった。はやくも数年後に、2つの帝国は、激しい戦いを始める。この日露戦争は、ロシアの惨敗に終わり、その極東における地位を大きく揺るがした。
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