敗北につぐ敗北…:日露戦争の4つの事実

日露戦争(1904ー1905)、満州、中国。日本の兵士たちが負傷したロシア帝国の兵士を仮包帯所ヘ連れて行く。

日露戦争(1904ー1905)、満州、中国。日本の兵士たちが負傷したロシア帝国の兵士を仮包帯所ヘ連れて行く。

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 20世紀初頭の日露戦争は、まさに破局的な結果をロシア帝国にもたらした。相次ぐ敗北、軍事的栄光の失墜、そして国内の革命運動の台頭…。

1.ロシア海軍の史上最悪の大敗:日本海海戦(対馬沖海戦)

多大な被害を受けたロシアの戦艦「オリョール」(「鷲」)。この戦艦は対馬沖海戦の時に大日本帝国海軍に拿捕された。

 ロシア史上最悪の海軍の敗北が、1905527日から28日にかけて、日本と朝鮮半島の間の対馬海峡で起きた。ロシア海軍の38からなるバルチック艦隊(2太平洋艦隊)が、89から成る日本の連合艦隊によっ撃滅された。

 日本が優位に立っていたのは、艦の数だけではなかった。日本の艦船の大部分はロシアのそれより速度で優り、より近代的、先進的なものだった。しかも日本の水兵は、ロシアの水兵よりはるかに戦闘経験が豊富だった。

 海戦の結果、ロシア側は、21隻が沈没、被拿捕6隻、中立国抑留6隻。逃れたのは数隻のみだった

 この惨憺たる敗戦により、ロシア帝国はもはや海軍の超大国ではなくなった。そして、その後数十年にわたり、「対馬」という言葉は完敗の代名詞となった。

 2.ロシアの同盟国モンテネグロは戦後1世紀以上にわたり日本との「戦い」を続けた

ポーツマス会議。ロシア側:イリヤ・コロストウェツ、コンスタンチン・ナボコフ、セルゲイ・ウィッテ、ロマン・ローゼン、ゲオルギー・プランソン。日本側:安達峰一郎、落合謙太郎、小村寿太郎、高平小五郎、佐藤愛麿。

 ロシアからの長期にわたる政治的および経済的支援を恩に着て、モンテネグロ公国は日本に宣戦布告した。しかし、実際に日本と戦うためにモンテネグロ軍が極東に派遣されたわけではない。単に歓心を買うためのジェスチャーにすぎなかった(わずかな義勇兵が送られたのみ)。

 ところが、1905年にロシアと日本が講和したとき、モンテネグロは見落とされていたので、形のうえでは戦争状態が続いた。

 第一次世界大戦後、モンテネグロはほぼ1世紀にわたってその主権を失った。第二次世界大戦中、ユーゴスラビアは、イタリアとドイツにより分割され、モンテネグロはイタリアの占領下に置かれて、傀儡国家モンテネグロ独立国となったが、日本はこれを認めず、依然、平和条約は結ばれなかった。

 ようやく2006年に、すなわちモンテネグロがセルビアから分離独立して再び政治地図に現れたとき、両国は「書類を整理した」。こうして「戦争」は正式に、日露戦争終結の101年後に終わった。 

3.うち続く敗戦…奉天会戦でも勝利を逸す

旅順要塞。包囲攻撃の時、ロシア軍の堡塁にて。

 日露戦争では、大規模な戦闘でロシア軍が勝ったことは一度もなかった。攻撃や奇襲も一度も成功せず、旅順要塞の英雄的な防衛戦も、結局は降伏で終わった。

 それでも、戦争のあらゆる局面がロシア軍にとって惨敗というわけではなかった。奉天会戦(1905年)は、日露戦争のなかで規模も犠牲者数も最大だったが、日本側の損失はロシアを2倍上回った(日本側の15,000人に対し8,000人)。

  会戦後にロシア軍が奉天を放棄して撤退することを余儀なくされたという事実にもかかわらず、日本軍はこの戦いを「不確かな勝利」とみなし、これは彼らの攻勢を鈍らせた。

 確かに、公然と行われた戦闘では成功はまったく得られなかったが、ロシア水兵の巧妙な作戦行動は成果を上げた。

 日本側により旅順港閉塞作戦が行われていた時、ロシア水兵は、日本の戦艦2隻、初瀬と八島が、巡視任務の間に毎日同じ航路を通っていることに気がついた。

 ロシアの機雷敷設艦「アムール」は、このルートに密かに機雷を敷設するために、霧を利用した。そして日本の2隻の戦艦は翌日、機雷に触れ、沈没した。

4.旅順要塞を攻略した乃木将軍の自決

乃木希典将軍

 乃木希典将軍が率いる第3軍は、19047月に現在の中国遼寧省に位置する旅順要塞を包囲した。長い防衛戦は190512日まで続き、日本側では、乃木の2人の息子を含め、56,000人が死亡した(乃木の長男、勝典は「南山の戦」で戦死)。

 要塞がついに降伏したとき、乃木は日本の国民的英雄となった。しかし彼自身は、この出来事をまったく違う風に見ていた。

 旅順要塞に入城すると乃木は、攻囲戦で戦死した将兵を弔うべく招魂祭を挙行している。

 戦いが終わると乃木将軍は参内し、明治天皇に復命した。乃木は涙ながらに、将兵に数多くの犠牲者を出したことに対し許しを請い、自刃して罪を償いたいと述べた。だが、明治天皇は、将軍を非難せず、自刃も許さなかった。天皇は、乃木の苦しい心境は分かるが、今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば自分が世を去った後にせよ、と述べたという。

 乃木将軍は平時の生活に戻り、明治天皇の意向で、学習院院長となり、裕仁親王(後の昭和天皇)の教育を委ねられた。

 乃木はまた、廃兵院をしばしば見舞い、多額の寄付を行ったほか、人から贈り物をもらうと、そのほとんどを廃兵院に寄贈している。さらに、上腕切断者のための義手の設計に参加し、いわゆる乃木式義手を完成。自分の年金を担保として製作、配布した。

 明治天皇の崩御からほどなく、1912913日、すなわち明治天皇大葬が行われた、その日の午後8時頃、静子夫人とともに作法にのっとり自刃した。

 

 

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