マレンコフ
1953年3月5日、独裁者ヨシフ・スターリンが亡くなり、彼の側近の一人だったゲオルギー・マクシミリアーノヴィチ・マレンコフがソ連の指導者の座に就いた。彼は同日、閣僚会議議長(首相)に選出され、直ちに「諸民族の父」の閣僚会議(内閣)を引き継いだ。
しかし、マレンコフの権力は、前任者スターリンほど絶対的かつ無制限ではなかった。マレンコフは、最も重要な地位と考えられていた首相になったけれども、内務大臣として警察と諜報機関を率いていたラヴレンチー・ベリヤ、および共産党中央委員会第一書記を務めていたニキータ・フルシチョフに配慮しつつ、行動しなければならなかった。
マレンコフが権力の座にあった期間は、2年に満たなかった。しかしこの間、彼は国防費を削減し、さらに軽工業と農業の改革を実行した。これは一つには、農民への課税を引き下げ、過去数年間の集団農場の債務を免除したことによる。その結果、農村の生活は大幅に向上した。こんなチャストゥーシカ(民謡の一種)が人々の間で流行った。
「ああ、マレンコフありがとうな。あいつは俺に牛を飼うことを許してくれたぜ。スターリンときたら、横になる(死ぬ)ことを許してくれただけさ。やつは、ヤギさえ飼わせてくれなかったよ」
にもかかわらず、マレンコフの政策に反対するグループが、ソ連の指導部内で膨れ上がっていった。彼らの利益の代弁者となったのがフルシチョフだ。マレンコフへの不満は、とくに党幹部の報酬を半減する決定、重工業と防衛政策への「軽視」などにより生じた。
「表面上は、マレンコフは、失政や誤りを犯したとして非難された。だが実は、国を集団指導していた彼の「同志たち」は、次の点で彼を許さなかった。つまり、自分たちに相談せずに、いくつかの重要な決定を下し始めた――まるでスターリンみたいじゃないか、というわけだった」。ソ連の政治家ミハイル・スミルチュコフはこう事態を見ていた。
フルシチョフは次第に力をつけていき、やがて、彼の権力への道にはいかなる障害もなくなる(ちなみに、1953年6月に、彼とマレンコフの共闘により、強大な権勢を誇ったベリヤが逮捕、処刑されていた)。そして1954年初め、フルシチョフは、ゲオルギー・マレンコフを閣僚会議議長のポストから解任させることに成功する。
マレンコフはその後もしばらくは、ソ連のエネルギー部門を担当していたが、1957年にフルシチョフを政権から追い落とそうとして失敗し、逆に自分が失脚して、永遠に政界を去った。
アンドロポフ
1982年11月12日、ソ連の秘密警察「KGB」を15年間率いていたユーリー・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフがソ連共産党中央委員会書記長に選出された。しかし彼は、わずか1年半未満しか最高権力の座にいない運命だった。
「アンドロポフは、治安当局内で権威があっただけではない。彼が中央委員会書記長に選ばれたとき、KGB議長だったにもかかわらず、ほとんどの人がこの選出を是認した。KGBは、率直に言って、不人気な組織だが、人々はこういう人物がまさに必要だと感じたのだった…」。1985~1991年にKGB第一副議長を務めたフィリップ・ボブコフはこう振り返っている。
アンドロポフ時代は短くはあったが、腐敗、汚職、貿易における職権乱用などとの大規模な戦い、そして党内の引き締めで際立っていた。彼が指導者だった間に、18人の大臣がポストを失っている。
ソ連の一般庶民は、主に「秩序の回復」と「規律の強化」に関する措置で、ユーリー・アンドロポフを記憶している。当時、警官たちは、勤務時間中に映画館やデパートの手入れを行い、怠慢な職員や授業をサボっている学校生徒を摘発した。また、多くの商品の価格が上昇したが、その一方で、「アンドロポフカ」と呼ばれる安価なウォッカが登場した。
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アンドロポフは、国の抜本的改革はもはや「待ったなし」だと考えていた。彼の下で、いわゆる「大規模な経済的実験」が始まった。これは、企業の権利を拡大し、企業をまったく新しい経済状況に移そうとするものだった。さらに、重要な政府決定について、各職場で直接、予備的な話し合いを行う慣行が導入された。
しかしアンドロポフは、健康状態のせいで、ソ連における政治・経済の改革を十分に実施できなかった。1984年2月9日、彼は、急性腎不全が悪化して亡くなった。
「運命がユーリー・ウラジーミロヴィチ(アンドロポフ)にもう数年の生命を与えていたならば、我々の社会の破壊的な激震、血なまぐさい民族紛争、国家権力の全般的弱体化は起きなかっただろう…」。1990~1991年にソ連最高会議議長を務めたアナトリー・ルキアノフはこう言い切る。
チェルネンコ
アンドロポフの後任として、ソ連共産党中央委員会書記長になったのはコンスタンティン・ウスチーノヴィチ・チェルネンコ。彼は、ソ連の歴代最高齢の指導者として、権力の座に就いた。選出時、彼は72歳になっていた。
チェルネンコは多くの点で、国を近代化しようとした前任者の政策を引き継いだ。次代のミハイル・ゴルバチョフの下で有名になった「ペレストロイカ(建て直し)」について最初に話したのはチェルネンコだ。彼は、「国の管理システム、我々の経済メカニズム全体」がそれを必要としていると語った。
チェルネンコは、「寄生虫」(ソ連で職を持っていない人の呼ばわり)に対する警察の手入れを徐々に軽減し、汚職対策において、前任者よりも穏便に行動しようとした。とはいえ、彼の下で、「綿花事件」の捜査は続けられた。
これは、ウズベク・ソビエト社会主義共和国における大規模な経済上の職権乱用をめぐる事件だ。また、モスクワ最大の食料品店「エリセーエフ商店」のユーリー・ソコロフ店長は、横領で告発され、銃殺刑となった。
警察の汚職に対する取り組みに、新たなはずみが加わり、結局、内相ニコライ・ショーロコフが解任。彼は自殺した。
「チェルネンコの政権は短命に終わったが、彼は、平和の痕跡を歴史に残したかったのだと思う。アンドロポフの葬儀に参列したアメリカのブッシュ副大統領に、チェルネンコはこう言った。『ソ連と米国は不俱戴天の仇ではない』と」。ソ連の外交官アナトリー・アダミシンは、自著『様々な時代』で回想している。
チェルネンコは、核兵器と宇宙兵器に関する米ソ間の交渉の再開を承認した。しかしその一方でソ連は、1980年に米国がモスクワ・オリンピックをボイコットしたことへの報復として、1984年のロサンゼルス五輪をボイコット。
スターリンの名誉回復をもくろんだチェルネンコの試みは頓挫したが、スターリン時代の元外相、94歳のヴャチェスラフ・モロトフの党籍は回復させた。モロトフは、1962年にフルシチョフによって「反党活動と大粛清への積極的な関与のかどで」、党から追放されていた。人々は、チェルネンコが自分の後継者を見つけた、とジョークを飛ばし始めた。
チェルネンコは、1985年3月10日に心停止で亡くなり、クレムリンの壁に埋葬された最後の書記長となった。翌日、ミハイル・ゴルバチョフがソ連の指導者に就任する。