世界を変えた男、ミハイル・ゴルバチョフが90歳!(写真特集)

歴史
エカテリーナ・シネリシチコワ
 2021年3月2日、ソ連で最初にして最後の大統領、ミハイル・ゴルバチョフが90歳になる。ノーベル平和賞を受賞したこの人物の生涯を、写真特集で振り返ってみよう。

 ミハイル・ゴルバチョフは1931年に生まれた。独裁者ヨシフ・スターリンがその「鉄の拳」で、階層としての農民を一掃しようとした年だ。

 スターリンは、個人農を禁止して集団農場をつくり、これに反対する人々に対して、新たなテロル(粛清)を準備した。

 その60年後に、民間企業のみならず、二十以上の国と国民が自由を得ようとは、そしてそれが北カフカスのスタヴロポリ地方の農村に生まれた少年のおかげだとは――日本風に言えば――お釈迦様でもご存知なかった。

 ゴルバチョフは普通の農家に生まれ育ち、子供のころから青少年期にかけて、畑でコンバインを運転していた。だから、スターリンの集団化の正体はよく知っていた。しかし、ゴルバチョフの祖父の一人がコルホーズ(集団農場)を率いていたため、集団化の恐怖は――飢餓、逮捕、流刑という形では――彼の家族に影響を及ぼさなかった。

 第二次世界大戦後(彼らの村は4か月間、ドイツ軍の占領下にあった)、ゴルバチョフは高校(上級学校)を優等で卒業し、コムソモール(ソ連共産党の青年団)の活動家になり、労働赤旗勲章を授与された。

 後に、この若き日の経験は彼の助けになる――ゴルバチョフはソ連の農業大臣を務めたから。高校卒業後に彼は、国内最高の名門、モスクワ国立大学法学部に一般入試で入学する。その後、彼の言葉によると、「私は、国の歴史を見直す、長年にわたる思索を始めた」

 1950年に彼は、将来の妻ライサに出会った。彼女は、生涯にわたる忠実な伴侶にして友となる。結婚式は、1953年に学生寮の食堂で行われた。

 ゴルバチョフは、党内の出世階段を駆け上がっていく。ソ連の指導者、レオニード・ブレジネフ書記長との関係は良好で、「ナンバー2、ナンバー3の人たち」の覚えもめでたかった。陰でノーメンクラトゥーラ(ソ連のエリート層)は、彼を「スタヴロポリ地方の主人」と呼んでいた。

 ゴルバチョフは1985年にソ連の指導者の座に就く。ソ連共産党書記長に就任したのだが、彼は、健康を損ね意識も明晰とはいいがたい前任者の多くとは非常に違っていた。

 彼は若く(政治局では、54歳という年齢は、若輩とみなされていた)、健康で、オープンマインドで、高い教育を受けており、しかも、市井の人々と直接対話することを恐れていなかった。

 そういうゴルバチョフは、変化を熱望する西側の人々にもソビエト市民にも人気があった。フランソワーズ・サガンセーガンは彼についてこう述べている。「まったく意外なことにノーマルな人だ」

 「そのとき私は、事実上、国家最高のポストだったソ連共産党中央委員会書記長となることに同意したが、次のことを承知していた。この国がこれ以上このように生きていくことは不可能である。根本的な改革の実施が必要だが、それが支持されない限り、この職務に留まることはできない、と」。ゴルバチョフはこう振り返っている。そして、変化は速やかに起きた。

 まず彼は、「飲酒に対する戦い」を宣言し、反アルコールキャンペーンを開始した。これは当時、ウォッカとその代用品で文字通り滅びようとしている国にとって大きな問題だった。

 ソ連の指導者として彼は、アメリカのロナルド・レーガン大統領と会う。両超大国の指導者が握手を交わすのは久々のことだった。これが冷戦終結と核軍縮の発端となった。新たな現実は急速に展開していった。

 ゴルバチョフはソ連共産党から、この国の政治システムにおける独占的な、憲法上の地位を奪った。そして、共産党の特権乱用、汚職などを「掃除」した。民主的な選挙が行われるようになり、検閲は法律によって廃止され、国家による対外貿易の独占などの、問題ある政策も葬られた。

 その後、ゴルバチョフは、米国の指導者と再三会った。「この男がペレストロイカだ!」と、ブッシュ・シニアは彼について言ったことがある。

 1988年4月7日、ゴルバチョフは、アフガニスタンからのソ連軍の撤退を開始した。

 2年後、ゴルバチョフは、ドイツの再統一とベルリンの壁崩壊において重要な役割を果たした。 1990年3月、彼は、民主的選挙で選出されたソ連最初の(そして結果的に唯一の)大統領になった。

 1991年にゴルバチョフは、「平和のプロセスにおける彼の主導的役割により」、ノーベル平和賞を受賞し、歴史にその名を刻まれた。 

 しかし、国内における非暴力と民主化の政策は、民族間の紛争の嵐という結果をもたらした。ゴルバチョフに対する主な非難は、今日もなおソ連崩壊の原因をつくったという点にある。

 1991年に大統領の職を辞し、ソ連が崩壊した後、ゴルバチョフは、政治の第一線を離れ、ゴルバチョフ財団とグリーンクロス(国際環境保護団体)を設立。ロシア連邦初代大統領のボリス・エリツィンに厳しく反対する立場をとった。

 2014年、モスクワ大学の学生を前に、彼は、ソ連崩壊に対する自らの責任を認めた。「私は(ソ連を)維持しようとしたが、できなかった。…私はこの点に責任を負っている。誰も私を更迭したわけではない。私は自ら去った。(課題に)対処できなかったからだ」

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