アフガニスタンからソ連軍が撤退して30年:3つの神話を解剖する

V. Suhodolskiy/Sputnik
 アフガニスタンからソ連軍が撤退して30年になる。ソ連のアフガニスタン介入と撤退をめぐり、いまだに広く信じられている神話があるが、それを検討するには良い機会だ。

① ソ連軍は軍事的敗北を被ったために撤退せざるを得なくなった 

 1980年代のアフガニスタンにおける内戦およびソ連軍の介入について、最も長く、また広く信じられてきた誤解の一つがこれだ。つまり、ソ連軍は、ムジャヒディンとアメリカにより軍事敗北を被った。そして、戦いで大損害を受けたソ連軍は、1989年にアフガニスタンから撤退する以外に選択肢はなかった、というものだ。 

1979年12月27日、ムジャヒディンの戦闘員が、9月にアフガニスタンのアスマル近郊でカブール政府軍との戦いで捉えたソビエト戦車を視察

 だがこれは、歴史的現実からかなり乖離しているように思える。1980年代半ばには、反ソ勢力のムジャヒディンが敗北を喫しつつあるという深刻な懸念があったのだから。

 1980年代に米国務省 ・情報研究局(INR)を率いていたモートン・アブラモヴィツは、1997年にこう語っている。

 「1985年には、ムジャヒディンが負けていること、彼らが弱体化し、まとまりを欠いていることが、深刻に懸念されていた。彼らの損失は大きい一方で、彼らがソ連軍に与えていた損害はさほどではなかった」

 このほか、米国によるスティンガーミサイル等の供与が、戦況を反ソ勢力有利に傾けたとも言われている。ソ連空軍はそのために多くの機器と人員を失ったので、ゲーム・チェンジャーと見なせる――。こんな情報もあった。

 だが、アフガニスタン駐留ソ連第40軍(1979年に同国に派兵)の最後の司令官を務めたボリス・グロモフは、「勝利」と「敗北」という単純な割り切り方を斥ける。

 グロモフの主張によれば、これはパルチザンに対する軍事作戦であり、はっきりした「勝利」は期待されていなかった。ソ連軍は軍事作戦の全期間にわたり、アフガニスタンの大部分を支配していた。ソ連軍の前哨基地は、外国からの財政的支援が増大していったにもかかわらず、ただ一つとしてムジャヒディンによって奪われることはなかった。グロモフはこう指摘する。

 「第40軍は、紛争のピーク時には10万8800人の将兵を擁していたが、まさにこのことが、アフガニスタンで“古典的な”勝利を目指した者など誰もいなかったことを証明している」。グロモフはこう述べ、この国を効果的にコントロールできればそれで「御の字」であったことを仄めかした。

 ちなみにベトナムと比較すると、米国は、アフガニスタンの5分の1の領域に5倍も多い軍隊を送り込んでいたが、結局、撤退せざるを得なかった。

② ソ連兵の “冷酷さ” という神話

 しばしば強調されることだが、ソ連がアフガニスタンを支配できたのは、そのやり方が冷酷だったからだ、という。だがグロモフによれば、「冷酷なソビエト兵士」なる虚像は、ムジャヒディンを支援した勢力によってつくり出されたものだ。彼らはそれによって、その財政援助の正しさと政治的正当性を訴えようとしたのだ、と。

 ソ連軍は、地元住民の生活を改善することを目的として、複数の市民生活および政治に関わるプログラムを実行した、とグロモフは主張する。

「例えば、1982年だけでも、第40軍は住宅の修理、道路の建設、地元のアフガニスタン人への食料や医薬品の供給、さらにはいくつかの文化的イベントの開催など、127もの民間プログラムを実施した」

ソ連軍と地元住民

 イギリスの元外交官で『Afgantsy』(2011年)の著者、Rodric Braithwaiteは、この本をめぐるインタビューでこう認めている。自分がいちばん驚いたのは、ソ連と地元住民との関係がどんなものか悟ったときであると。

 「ソ連兵たちは、農民、商人、イスラムの神学者など、地元の人々と緊密な関係をもっていた。私はアフガニスタンに行き、今とロシアの統治下と、どちらが暮らし良かったかと、地元民に尋ねた。面白いのは、アフガニスタン人全員が、これを愚問だとみなしていたことだ。彼らは皆口をそろえて言った。もちろんロシア人が統治していたときさ、と」

 地元のアフガニスタン人がロシア人にこうした態度をとっていた実例は、この記事にもたくさんある。その記事のライターは直接確かめているのだ。

③ “ソ連・アフガニスタン戦争” 

 アフガニスタンにおける1980年代の紛争は、しばしば「ソビエト・アフガニスタン戦争」と呼ばれている。しかし、ソ連軍はアフガニスタン政府から正式に何度も派兵を要請されていた。さらに、この親ソ政権の反対派は、パキスタン、サウジアラビア、そして西側諸国の支援を受けていた。だから紛争は「国際化」されていたわけで、その複雑さをすべて、ソ連対アフガニスタン国民の闘いとして単純化するのは無理である。国民のなかには、明らかに衷心からカブールの政権を支持していた者もいたのだから。

ソ連軍、テルメス市(ソビエト)近くのアムダリア川のほとり

 アフガニスタン駐留ソ連第40軍司令官だったボリス・グロモフは、ここで「戦争」という用語を使うのは適切でないとしている。彼によると、「軍事活動があまり集中して行われなかった」ために、不適当だろうという。

 また、アフガニスタン内戦を引き起こしたのはソ連軍の派兵だと言うのも間違っているだろう。カブールの親ソ政権の反対派が、1979年12月以前に武器を取って立ち上がったという証言がある。

 しかも、ムジャヒディン勢力への西側の支援も、ソ連の軍事介入以前から行われていた。ロバート・ゲーツは、当時、中央情報局(CIA)に勤務し、後に国防長官を務めたが、1979年3月の会議をこう振り返っている。すなわち、CIAは、ムジャヒディン支援を行い、それによって「ソ連をベトナムの泥沼にはまり込ませる」べきかどうかという問題を提起し、彼らに資金を提供することで合意した、と。

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