画像提供:FotoSoyuz/Vostock-Photo
ソ連共産党中央委員会は1985年5月7日、法令「飲酒・アルコール依存症克服対策について」を採決した。「社会主義体制の創造力、ソ連生活の優位点がより明らかになっている現代の条件のもと、共産主義の倫理および道徳の原則を厳格に順守し、悪い習慣および余弊を克服することには、特別な意義がある。このような醜悪な現象とはまず、酩酊...」。決定のこの文言は当時、すべての新聞に掲載され、ラジオやテレビでくりかえし伝えられた。
「熱烈承認」
当時の風潮に沿って、決定と命令は「全国民の支持」を要した。数ヶ月後には例えば、モスクワの会社、研究所、行政機関で6万3000回以上の集会が行われ、600万人ほどが出席した、という報告が政府になされた。どこでも「熱烈な承認」という言葉とともに、可決されていた。
「高尚な」決定の実践には、行政措置や警察措置まで積極的に活用されていた。モスクワでも1500ヶ所の「ワイン・スポット」のうち、150ヶ所しか残されなかった。おまけに営業開始時間もそれまでの午前11時から、午後2時へと変更された。モスクワのリキュール・ウォッカ工場「クリスタル」では外貨で購入されたばかりの輸入設備がスクラップ送りになり、2ヶ所の大きなビール工場ではステンレス製の巨大タンクが切断された。ソ連政府はアルコール生産量を半分に減らすことを提言していたため、極めて正当な動きのように思われた。
警察官は通りや公共の場などで、しらふに見えない人を連行していった。連行先は酔っ払い保護室。このような受け入れ場所は急増。人民裁判所はフル稼働になり、酩酊者とされた市民には軽くても最大100ルーブルの罰金(当時の平均月給は150~180ルーブル)、重ければ2ヶ月の矯正労働または15日間の禁固刑と、非常に厳しい罰則が言い渡された。
全ソ禁酒連合会が設立され、クレムリンからの暗黙の指令によって、すべての「人事幹部」の入会が義務付けられた。月刊誌「禁酒と文化」が、潤沢な予算が割かれて、登場した。
劇場の演目や映画館の上映スケジュールからは宴会のシーンのある映画や演劇が外された。ボリショイ劇場は、オペラ「ボリス・ゴドゥノフ」まで外さなくてはならなかった。プーシキンの”せい”で、宴会のシーンが複数あったためだ。
地下販売や代替品
共産党の路線を言葉で熱烈に支持していた国民は、現実の生活において反アルコール・キャンペーンに対する”ゲリラ戦”を開始。タクシーの運転手はトランクにウォッカを積んで、高値で24時間販売を行った。国民はキャンディー、トマトペースト、赤カブ、またはオークの樹皮から酒をつくるレシピを考案し、多才な密造機器を発明した。
ソ連の反アルコール・キャンペーンには、他の副作用もあった。薬物中毒者や毒物嗜癖者の人数が急増したのである。代用液体を飲んだことによる日常的な中毒の指標も何倍にも高まった...
国庫への歳入も激減した。ソ連政府は結局、生産量を戻すことになった。アルコールの販売開始時間も午前11時に戻された。1985年の初秋までには、モスクワの「ワイン・スポット」の数は倍増した。
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