ボリシェヴィキが使った「河川空母」

空母に飛行機を移動する作業

空母に飛行機を移動する作業

所蔵写真
 動きの鈍い川の巨人は「革命の敵」を撃破し、1929年の武力紛争で中国軍を制圧するのに一役買った。

 空母は現在では海上における国家および国力の象徴と見なされている。その黄金時代は第二次世界大戦中だが、第一次世界大戦でも大きな役割を果たしていた。

 初期の空母の大半は甲板で艦載機を離着陸させることができなかった。その代わり、必要な地点まで水上機を運んで水上に降ろし、また水上から引き揚げたりした。

 20世紀初め、ロシア帝国はこうした船の製造に関して世界をリードしていた。7隻の水上機母艦が黒海やバルト海でトルコ軍やドイツ軍を相手に戦った。残念ながら、これらはすべてロシアが1918年に第一次世界大戦から離脱するとともに失われてしまった。

 ロシアで政権を取ったボリシェヴィキは、前政権から水上機母艦の建造の伝統を受け継がなかったわけではない。ただし、新政権はこうした船を海ではなく、川や湖で使うつもりだった。

「コムーナ」

河川空母「コムーナ」

 ロシア内戦の際、海はあまり戦場にならなかった。ボリシェヴィキ対「革命の敵」の紛争の主戦場は陸上だった。そのため、ソビエト政権はシベリアやウラル、沿ヴォルガ地域の河川で運用できる水上機母艦を作ることを考えた。 

 1918年8月、ヴォルガ川で活動する世界初の河川空母「コムーナ」が作られた。その基礎となったのは石油輸送用の艀(はしけ)「フランツィヤ」で、全長140㍍、全幅19㍍だった。

河川空母「コムーナ」の構造

 水上機母艦にはM-9水上機6機から成る航空隊と車輪付きの戦闘機「ニューポール」3機が載せられた。主力は水上機で、特別に設置された木製の台の上を滑らせて水上に降ろされたり、水上から引き揚げられたりした。

 「空母班」は「コムーナ」本体と、タグボート、航空隊の人員と弾薬・燃料を乗せる旅客蒸気船、同行する数隻の小艇から成った。班を守っていたのは、水上機母艦に搭載された機関銃と37 mm対空砲だった。

 「コムーナ」は非常に動きが鈍かった(わずか時速11キロメートル)が、戦闘に際してはしばしば重要な役割を果たした。艦載機は敵のインフラや部隊を空爆したり、偵察を行ったりした。

 パイロットのセルゲイ・コズロフの回想によれば、1918年、ツァリツィノ(スターリングラード)攻防戦の際、赤軍の守る街に通じる水路を砲撃していた白軍の砲兵大隊を水上機が探していた。白軍は巧妙にカムフラージュされており、通常の航空機からの偵察では発見できなかった。そこで「コムーナ」の水上機に賭けたのだ。

 「8月25日、M-9水上機で砲兵大隊を見つけるべく、師団のパイロットが低空飛行の偵察に出た」とコズロフは綴っている。「谷間に沿って何度往復しても結果は出なかった。パイロットはもっと高度を下げることにした。神経戦が始まった。そして白軍が痺れを切らした。敵は飛行機に向けて激しい砲撃を浴びせ、自らの居場所を明かしたのだ。翼と浮舟の多くの箇所が撃ち抜かれた。破片が操縦桿に当たり、パイロットは右手の2本の指を負傷した。隣に座る観測兵のマクシメンコがその指を抑えた。飛行機は回転を続けた。砲兵大隊の位置を突き止めると、乗員らは艦隊に戻り、砲撃に必要な情報を伝えた」。こうして敵の陣地は大砲で狙い撃ちにされた

儚い河川空母の時代 

 「コムーナ」に続いて、より機能的な水上機母艦「ポセイドン」と「スヴォボダ」がヴォルガ川に現れた。いずれも石油輸送用の艀を改造したものだった。ただし、「コムーナ」とは異なり、弾薬庫とパイロット用の船室は別の蒸気船ではなく、水上機母艦自体に設置された。

水上機母艦「スヴォボダ」、1918年

 ソ連の水上機母艦には、動きが鈍いということ意外にも共通の欠点があった。飛行機は常に天日と雨風に晒され、劣化を免れなかったのだ。この問題は「スメルチ」(「死」の意)というユニークな名前の水上機母艦で解決された。甲板に2つの格納庫が取り付けられたのだ。

 1919年3月に旅客蒸気船「タチアナ」を基に作られた水上機母艦「プリピャチ」は数奇な運命を辿った。ポーランド=ソビエト戦争でポーランド軍に鹵獲されて軍用輸送船として使われ、1920年7月25日の撤退の際に沈められた。ボリシェヴィキは船を水の底から引き揚げ、指揮艦として復活させた。だが、慌ただしい退却を余儀なくされ、母艦は再び沈められた。1921年4月、今度はポーランド軍がこれを引き揚げ、「アドミラウ・シェルピネク」の名で海軍の戦列に加えた。1939年9月17日、赤軍がポーランド東部に侵攻すると、船はまたも沈められ、今度も引き揚げられた。1941年9月、またしても水の底に引きずり込まれた。キエフから退却するソビエト軍によってドニエプル川に沈められたのだ。3年後、多難な船はまた引き揚げられたが、もはや修復は不可能ということで解体された。 

 白軍もまた独自の空母艦隊を作ろうとしていた。1919年初夏、ウラルのペルミ近郊を流れるチュソヴァヤ川で、彼らは84㍍の艀を飛行機4機が載る水上機母艦「ダニリハ」に改造した。しかし、この船が本領を発揮することはなかった。同年7月には赤軍に奪われて焼却された。

白軍の空母

 内戦後にソビエト河川空母が活躍したのは一度だけだ。中ソ紛争の最中の1929年秋、スンガリ川(松花江)に水上機母艦「アムール」が配置され、第68航空隊の基地となっていた。母艦は巧みな偵察と敵陣の攻撃を展開し、特に富錦地域での上陸部隊の援護で際立った活躍を見せた。「航空隊のパイロットらによって砲艦や武装した蒸気船、艀が破壊された。敵の砲兵隊や機関銃兵が制圧された。白系・中国騎兵隊は混乱し、上陸部隊の有利になった」と航空隊の指揮官エドゥアルド・ルフトは記している

水上機母艦「アムール」

 1930年代、航空機製造と造船の著しい発達を背景に、ソ連は図体の大きな川の巨人の運用をやめた。バトンはソ連から米国に引き継がれた。第二次世界大戦中、五大湖にて演習用の「淡水空母」数隻が活動し、海軍航空隊のパイロットの育成に貢献した。

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