「スターリンのライフスタイルは極めて不健康で、座ってばかりいた。スポーツや身体を動かす仕事は、絶対やらなかった。喫煙し(しかもパイプで)、酒も飲んだ(主にワインで、グルジアのカヘティ地方のものを好んだ)。スターリン時代の後半になると、毎晩、政治局員らとともに食卓を囲んで、飲み食いした。こんな生活で73歳まで生きたとは驚きだ」。スターリンの秘書ボリス・バジャーノフは振り返っている。
確かに、スターリンは生涯を通じて、多くの病気や症状に苦しんでいた。それは、激務と絶え間ないストレスでさらに悪化した。
1. 重症筋無力症
通説では、スターリンは6歳のときに馬車にひかれて、左腕と左足を怪我した。「6歳のときの打撲傷で、肘関節が化膿し、左肩と左肘の関節が萎縮した」。彼の臨床記録にはこう記されている。とはいえ、いくつかの写真では、スターリンは左手をうまく使っている――例えば、娘を抱き上げている。
一方(意識せずにだろうが)、スターリンが歩いている間、その左腕はしばしば動かないままだった。彼は、腕を「くの字」に曲げて、身体に押し付けていた。また、左腕は右腕よりも短いように見えた。
スターリンの「左手が不自由だった」理由は、重症筋無力症だという説がある。これは、長期にわたる神経筋疾患で、さまざまな程度の骨格筋の衰弱につながる。重症筋無力症は先天性と後天性の両方があり、通常20~40歳の人に発症する。
2. 関節リウマチ
長年にわたり、スターリンは足に痛みを感じていた。晩年になると、少し足を引きずっているのがしばしば見られた。この事実は、彼の「水かき」のあるつま先が原因だと考える者もいる。彼の左足の第二指と第三指は、癒着していたからだ。しかし、これは病気ではなく奇形であって、そのせいで足を引きずっていたわけではない。
原因は関節リウマチだった。スターリンは、両足の関節に炎症を起こしており、たぶん変形もしていた。そのため彼は、特別製のブーツを履かねばならなかった。それは、ごく柔らかい革で作られた、いわゆる「穴の開いたブーツ」だ。
どうやら、このブーツはとても快適だったので、スターリンはめったに脱ぐことがなく、靴底の穴をよく踏んでいた。じっとしているとリウマチの痛みが悪化するので、長い会議の間、彼は一箇所に座っていられず、執務室を歩き回っていた。
1925、1926年(47、48歳)のころから、スターリンは保養地を訪れ、天然の温泉による硫化水素浴を足の治療に取り入れるようになった。しかし、関節リウマチは、体の他の部分にも影響し得る厄介な病気だ。いろいろな影響があり得るが、とくに肺炎や赤血球数の低下を引き起こしかねない。
「ナリチクで私は肺炎になりかかった。両方の肺に『喘鳴』があり、まだ咳をしている」。スターリンは1929年の保養の際に、妻にこう書いている。1935年、医師は、スターリンの関節リウマチを理由に、海水浴を禁じた。
3. 天然痘
スターリンは、グルジアのゴリで5歳のときに天然痘にかかったらしい。痘痕が多少顔に残り、スターリンはこれを気にしていた。若い頃、スターリンは党の資金を稼ぐために犯罪やテロに手を染めていたが、当時の警察の資料には、容疑者の重要な特徴として、この痘痕が常に含まれていた。後年、ソ連の新聞に載ったスターリンの写真では、痘痕が修正で消されていた。
4. 盲腸炎
1921年、スターリンは盲腸炎になった。当時、彼はもう新生国家、ソビエト・ロシアの高官だったので、ロシアで最も経験豊富な外科医の一人であるウラジーミル・ローザノフの診察を受けた。ちなみに、1918年に、ソ連の建国者ウラジーミル・レーニンに対する暗殺未遂事件が起きたが、その4年後の1922年に彼の身体から弾丸を摘出したのは、まさにこの外科医だ。だから、この国の指導者の間では、ローザノフはすでに信頼されていた。
「手術は非常に難しかった」とローザノフは回想する。「虫垂を取り除くほかに、盲腸を広範囲に切除しなければならず、結果を保証することは困難だった」
この手術の大部分は、局所麻酔で行われたが、難しい部分になると、ローザノフはスターリンにクロロホルム麻酔をかける必要が出てきた。これは、心臓を停止させかねない非常に危険な全身麻酔だ。しかし、スターリンは回復した。
5. 脳血管のアテローム性動脈硬化症
スターリンは、とくに第二次世界大戦中は、猛烈に働いた。政府高官や軍司令官との、延々と続く会議に参加し、その回数は、1日5~7回、合計で最大10~12時間にも及んだ。会議は、昼夜を問わず、ふつうはクレムリン、またはクンツェヴォ(モスクワ近郊)にあるスターリンのダーチャ(別荘)で開かれた。参謀総長は、ほぼ毎日、時には1日に数回スターリンと会った。
1940年代にスターリンの主治医を務めたウラジーミル・ヴィノグラードフは、不眠症と動脈硬化による高血圧が指導者の最も深刻な問題だと気づいた。ヨーロッパでの戦争が終結した後、ポツダム会談(1945年7月17日~8月2日)でストレス過多な交渉を終えて帰国すると、スターリンの状態は悪化していた。
彼は頭痛、めまい、吐き気を訴えた。心臓のあたりに激しい痛みがあり、胸部が「鉄の帯で締められている」感覚があった。その原因は、小さな心臓発作かもしれなかった。しかし、スターリンは、休息をスケジュールに挟むことに同意しなかった。
1945年10月10日から15日の間に、スターリンは脳卒中を起こした。もっとも、このときの脳卒中は、脳出血を引き起こさず、微細な脳血管の閉塞で済んだ。しかし、その後2か月間、ダーチャで過ごしている間は、彼は、内輪の誰とも――電話でさえも――話すことを拒んだ。
1946年から、スターリンは自分のスケジュールをもっと緩やかにした。会議は2~3時間で、それ以上はかからなかった。クレムリンにはほとんどおらず、クンツェヴォのダーチャにいた。
「夏には、父は一日中庭を動き回っていた。使用人は、仕事の書類、新聞、お茶を庭に持っていった。当時、父はもっと健康になりたい、長生きしたいと願っていた」。スターリンの娘スヴェトラーナは当時を回想している。
高血圧、めまい、呼吸困難――これらはすべて、アテローム性動脈硬化症の症状であり、アテローム性プラーク(隆起)の蓄積により動脈の内部が狭くなる状態だ。
スターリンの最後の数年間に主治医だったセラピストのアレクサンドル・ミャスニコフは、スターリンの検死(解剖)に立ち会い、「脳動脈の重度の硬化症」を報告した。この病気はスターリンの最晩年を耐え難いものにした。
1949年10月、スターリンは2回目の脳卒中を起こし、その後、発話能力をある程度失った。彼は、1950年8~12月、そして1951年8月~1952年2月に、長期休暇を取った。
スターリンは、認知と記憶に問題が生じ始めた。後にソ連の指導者となったニキータ・フルシチョフは、スターリンが何十年も接していた人の名前を忘れることがあったと回想している。
「スターリンがブルガーニン(政治局員で後に首相となるニコライ・ブルガーニン)に目を向けたとき、その姓を思い出せなかったのを覚えている。スターリンは彼をじっと見つめ、『君の名字は?』と聞いた。『ブルガーニンです!』と彼はすぐ答えた。こうした状況がしばしば繰り返され、スターリンはパニックに陥った」。フルシチョフはこう書いている。
スターリンは、最晩年になるとすべての仕事から身を引いたが、彼の状態は良くならなかった。 1952年後半には、頻繁に失神するようになり、介添えなしでは、もはや階段を上ることができなかった。ソ連の諜報機関の将官、パーヴェル・スドプラトフは、1953年2月にダーチャでスターリンと最後に会ったときのことをこう回想している。
「私が目にしたのは疲れ果てた老人だった。彼のこわい髪は、かなり細くなっていた。ゆっくり話すのが常だったが、今では努力して言葉を口にし、言葉の間隔が長くなった。2回発作を起こしたという噂は本当だったようだ」。スターリンは、1953年3月5日に、クンツェヴォのダーチャで死亡した。公式の死因は、脳内出血だとされている。