第一次世界大戦後、かつてヨーロッパ最強だったドイツ軍は悲惨な状況に置かれていた。ヴェルサイユ条約で兵員の数は10万人に制限された。機甲隊や航空隊、潜水艦隊を持つことや軍事にかかわる実験・開発を行うことを禁じられた。
しかし、ヴァイマル共和国の国防軍は、この苦い境遇に甘んじるつもりはなかった。ドイツの軍人は自国軍を発展させる決意に満ちていたが、これを同盟国が常に監視するドイツ国内で実行することは不可能だった。
解決策はすぐに見つかった。ドイツはソビエト・ロシアに協力を申し出たのだ。当時のロシアは激しい内戦と外国の干渉を経たばかりの仲間外れ国家であり、敵対する国々に囲まれていた。世界の列強の中でソビエト・ロシアを国家承認する国は一つもなかった。ヴァイマル国防軍の総司令官ハンス・フォン・ゼークトはこう指摘している。「ヴェルサイユ不平等条約は、強いロシアと緊密に接触することによってのみ破ることができる」。
モスクワは、ドイツとの関係を正常化することで封鎖網に穴が開くことを喜んだ。さらに、依然として高い専門技術を持つドイツ軍と軍事協力関係を持つことは、赤軍の近代化に必要不可欠だった。
モスクワとベルリンの軍事協力交渉は、ソビエト・ポーランド戦争(1991年―1921年)の終結前から始まっていた。反ポーランド精神を共有する両国は急接近した。ドイツもロシア同様、1919年のヴィエルコポルスカ蜂起の中で領土の一部をポーランドに割譲していたからだ。とはいえ、軍事政治同盟に関する話は一切出ていなかった。
1922年、イタリアの小さな町ラパッロで、ドイツとボリシェヴィキは外交関係の正常化について合意を結んだ。公式には経済関係の合意が結ばれたが、その裏で空軍パイロットや戦車兵の養成や化学兵器の開発において協力関係を結ぶ秘密交渉が行われていた。
総司令官ハンス・フォン・ゼークトとヴァイマル共和国軍の兵士
連邦公文書館その結果、1920年代にはロシアに秘密のドイツ人学校や養成所、軍事研究施設が多数現れた。ヴァイマル共和国政府はその維持に資金提供を惜しまず、毎年軍事予算の10パーセントを割いていた。
ソビエトとドイツの軍事協力事業は完全に内密に進んだ。この秘密は、もちろんモスクワよりもベルリンが隠し通したいものだった。1928年、ソビエトの在独全権代表ニコライ・クレスチンスキーはスターリン宛の書簡にこう記している。「国家的観点からすれば、我々はいかなる条約や国際法の規定に反することも一切していない。ドイツ人がここでヴェルサイユ条約の違反者としてふるまっているのであり、秘密の露見に怯えながら内密に非合法活動を続ける方法を考えるべきは彼らだ」。
リペツクの航空学校
連邦公文書館1925年、リペツク(モスクワから約400キロメートル)の郊外に秘密裏にドイツ航空学校が設立された。維持費用はすべてドイツが負担した。合意に基づき、ここではドイツ人だけでなくソビエト人もパイロット教育を受け、西側の同僚のノウハウを学んだ。
理論の学習だけでなく、新型飛行機や航空設備と武器の試験も行われ、空中戦の戦術が磨かれた。飛行機はドイツ国防省が仲介者を通して第三国から購入し、ソ連領内に運び込んでいた。こうして最初にもたらされたのが50機のオランダ製戦闘機フォッカーD.XIIIで、分解された状態でリペツク飛行場にやって来た。
ドイツ人パイロットのソ連での教育期間は約半年だった。彼らは偽名を使ってリペツクを密かに訪れ、階級章のないソビエトの制服を着ていた。航空学校に向かう前にヴァイマル国防軍から正式に除名されたが、帰国すれば職と階級を取り戻せた。実験中に死亡したパイロットの遺体は「車両部品」と書かれた特別な箱に入れて本国に送られた。
オランダ製戦闘機フォッカーD.XIII
連邦公文書館リペツク航空学校が存続した8年間で100人以上のドイツ人パイロットが養成された。その中には、フーゴ・シュペルレやクルト・シュトゥデント、アルベルト・ケッセルリンクのような、後にドイツ空軍で名を残す面々もいた。
1930年代初め、ドイツもロシアもリペツク郊外の航空学校に対する関心を失い始めた。ドイツは、多くのヴェルサイユ条約の制限をかいくぐって自国内に部分的に空軍を作ることができていた。ロシアにとっては、1933年にナチスに政権が移ったことで、思想上の敵と軍事技術協力を続けることは不可能になっていた。同年、航空学校は閉鎖された。
カマの戦車学校
所蔵写真ドイツ戦車学校をソ連に開く条約は1926年に結ばれた。しかし、学校が機能し始めたのは1929年末のことだった。カザン(モスクワから800キロメートル)の郊外に建てられたカマ学校はソビエト側の文書では「空軍技術講習所」という名で通っていた。
カマ学校はリペツク学校と同じ原則で働いていた。完全に秘密で、費用は基本的にドイツ側が持ち、ソビエトとドイツの戦車兵がそろって教育を受けた。カザン郊外の演習場では戦車兵器や無線機器が活発に試験され、戦車戦の戦術、カムフラージュ、装甲集団間の相互協力などが教えられた。
「大トラクター」(Großtraktor)と呼ばれた試験用戦車は、ドイツ国防省の注文でドイツの主要企業(クルップ、ラインメタル、ダイムラー・ベンツ)によって密かに生産されており、分解されてソ連にもたらされていた。赤軍はT-18軽戦車と英国製のカーデン・ロイド豆戦車を提供していた。
リペツク航空学校と同じく、カマ学校を維持し続けることは1933年以降不可能となった。わずかな存続期間に、250人のソビエト人戦車兵とドイツ人戦車兵が養成された。その中には、後にソ連邦英雄となるセミョーン・クリヴォシェイン中将や、ドイツ軍のヴィルヘルム・フォン・トーマ将軍、ハインツ・グデーリアンの参謀本部の上官となるヴォルフガング・トマレ中将らもいた。
トムカ学校に常住したドイツ人
連邦公文書館サラトフ州(モスクワから900キロメートル)のトムカ化学兵器学校は、ソ連領内のヴァイマル国防軍施設の中で最も秘密が厳守されていた。施設は4つの研究室、動物飼養場、有毒ガス除去室、発電所、ガレージ、居住用バラックから成った。設備のすべてと、飛行機および大砲の一部がドイツから密かに持ち込まれた。
トムカ学校には25人のドイツ人が常駐した。彼らは化学者や生物・毒物学者、火薬学者、砲兵だった。さらに西側の同僚に比べて化学兵器の運用経験が乏しいソビエトの専門家も学生として学校内にいた。
演習場での実験は1928年から1933年まで行われた。航空機や大砲を使った毒物の散布と汚染地域の除染が主な実験内容だった。
先述のように、ソ連領内のすべてのドイツ軍施設の中でドイツ軍が最も隠し通そうとしたのがトムカ学校だった。ヴェルサイユ条約に違反していることはもちろんだったが、ドイツにとってはその地理的な条件も重要だった。比較的小さくて人口密度の高いドイツ国内では、化学兵器の実験に適当な場所を見つけることが容易ではなかったからだ。ソ連側にとって学校の存在は資金と貴重なノウハウの糧だったが、政治的要因のほうが重要だった。第三帝国が生まれた年、トムカ学校は閉鎖された。
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