なぜボリシェヴィキ政権はモスクワを改名しなかったのか:他の都市名はあんなに変えたのに…

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 ソ連の建国者、ウラジーミル・レーニンの死後、サンクトペテルブルクはレニングラードと改名された。間もなく他のいくつかの都市も、有名なボリシェヴィキたちにちなんで名称が変わることになる。しかし、なぜそしてどんな経緯で、モスクワはこの運命を免れたのだろうか?

 すべては首都の移転から始まった。10月革命後、サンクトペテルブルクは、レニングラードになる前にすでに、ロシアの首都としての機能を失っていた。

 1917年10月に、ボリシェヴィキは、いわゆるブルジョワ革命だった2月革命に続き、2度目の革命を起こしたわけだが、その前に、サンクトペテルブルクが短期間ペトログラードと改名されていたことを、読者の皆さんはご記憶かもしれない(1914~1924年)。

 ここでは、そういうややこしいディテールは脇へ置いて、1918年にペトログラードがモスクワに首都の地位を譲った理由を見てみよう。


遷都

 遷都の理由はいくつかあった。まず、帝政時代の官吏たちがボリシェヴィキ政権をボイコットしたことだ。

 ペトログラードの政府機関では――国立銀行、外務省、中央電信局などを含む――、職員は、仕事に出てこなかったり、文書を廃棄したり、オフィスに閉じこもったりした。

 公務員たちがこれらの機関の適切な機能を妨げたので、ボリシェヴィキ政権は、モスクワに新しい役所を設置するしかなかった。

 第二に、ペトログラードには、多くの反ボリシェヴィキ派の人間と兵士がいた。この兵士たちは、ペトログラードで解散させられたロシア帝国軍の残党だ。

 彼らは、挑発を組織し、ボリシェヴィキとその支持者を攻撃し、陰謀を計画し、テロ攻撃を組織した。ボリシェヴィキ政権は、街を封鎖して食料供給を断ち切ることによってのみ、これらの君主制支持者を降伏させることができた。こうした状況下では、新政府が効果的に活動できないのは明らかだった。

 第三の、おそらく最も重要な要因は、1918年にまだ進行中だった第一次世界大戦だ。1917年12月6日にフィンランドが独立を宣言すると、国境はペトログラードから35キロの距離しかなくなった。翌年2月末までに、ドイツ軍は首都に肉薄し、3月2日に長距離砲で攻撃し始めた。

 3月10日、ウラジーミル・レーニンと他のボリシェヴィキ政権幹部は、秘密の列車でペトログラードからモスクワに向けて出発した。3月12日、首都移転のプロセスが完了し、3月16日、第4回ソビエト大会によって正式に承認された。

 しかし、疑問は残る。なぜモスクワの名称は変更されなかったのか?



都市の改名ブーム

 レーニンは生涯、都市、町、通りなどに自分の名を冠することに強く反対していた。彼の死後、未亡人のナデジダ・クルプスカヤは、レーニンは改名を不愉快に思うだろう、と繰り返し述べたが、彼女の声は聞かれなかった。

 1924年1月26日、レーニンの死からわずか5日後、第二回全連邦ソビエト大会が、同市のソビエトの「請願」を容れる形で、レーニンにちなんでレニングラードと改称した。改名の理由は、「ウラジーミル・レーニンの革命的な活動は、ペトログラードで最初に花開いた」ということだった。

 「都市改名フィーバー」は、ヨシフ・スターリンが主導した。彼はまた、そのプロセスから自分の名もはずさなかった。

 現在は紛争地帯であるウクライナ東部のドネツク州(ウクライナ語名はドネツィク)にある、ドネツク(ドネツィク)は、ユゾフカという名だったが、1924年にスターリノに改称。

 翌1925年には、ツァリーツィノ(現ヴォルゴグラード)がスターリングラードに改められ、ドゥシャンベ(タジキスタン共和国の首都)は、1929年にスターリナバードになり、シベリアのノヴォクズネツクは1932年にスターリンスクに改名された。リストはまだまだ続く…。

 1924年、エカテリンブルクは、ヤコフ・スヴェルドロフ(1885~1919年)にちなみ、スヴェルドロフスクになった。

 1931年、古都トヴェリは、ミハイル・カリーニン(1875~1946年)の名を冠してカリーニンに改称され、1932年にニジニ・ノヴゴロドは、ここで生まれた、社会主義リアリズムの有名作家マクシム・ゴーリキー(1868~1936年)にちなみ、ゴーリキーに改められる。

 ゴーリキー自身は、この決定に激しく反発し、自分の家族や友人がこの新名称を用いることを禁じた。

 1935年、サマーラは、ワレリアン・クイビシェフ(1888~1935年)にちなんでクイビシェフになり、スタヴロポリは、軍人クリメント・ヴォロシーロフ(1888~1969年)にちなみ、ヴォロシーロフに改名。くどいようだが、リストはもっともっと続くかも…。

 都市改名キャンペーンを実施することで、スターリンは、ロシア帝国の「地名学」のシステムを廃し、ソ連のそれに置き換えて、新たなソビエト的現実を創り出そうとした。

 これらの名称変更はすべて、あたかも国民の意思であるかのように装われ、政府は寛大にも、英雄的な指導者を称えるべく都市名を変更する義務を自らに引き受けた、というわけだ。

 しかしスターリンは、モスクワの名前を変えようとするあらゆる試みには、繰り返し断固として反対した。


モスクワの改名の提案

 モスクワ改名の案が初めて浮上したのは1927年だった。約200人のボリシェヴィキが、モスクワの名前を「イリイチ」(ウラジーミル・レーニンの父称)に改めるよう、嘆願書を提出した。その中で彼らは、「レーニンは自由なロシアを創設した」と書いていた。

 ところが、スターリンは提案を斥けた。その理由は、2つの大都市にレーニンの名を冠するのはやりすぎだ、ということだった(当時、ペトログラードがレニングラードになったばかりだった)。

 二度目の提案は、1938年に、 ニコライ・エジョフ(1895~1940年)によってなされる。当時、彼は、ソ連の秘密警察「内務人民委員部」(NKVD)を率いていた。エジョフは、大粛清の実行者であり、スターリンの冷酷な「子分」であり刑吏だったわけだが、この頃、スターリンの目からすると、職能と信頼感を失い始めていた。

 ボスの愛顧を取り戻すためにエジョフは、モスクワの名前をスターリノダール(「スターリンの賜物」と訳せる)に変えるプロジェクトを立ち上げろ、と部下たちに命じた。

 エジョフのプロジェクトでは、「ふつうのモスクワっ子」からの手紙や詩まで引用していた。しかしエジョフは、スターリンがあからさまなへつらいを嫌うことを考えていなかった。ボスは、その提案を「愚劣」として却下。エジョフはその後、長く生き延びることはできず、2年後に処刑されてしまった。

 いくつかの情報によれば、第二次世界大戦後、モスクワの改名キャンペーンがぶり返した(しかし、スターリンは提案を拒んだという)。さらにもう一度、スターリン没後に、彼の元側近や取り巻きの幾人かが、首都に彼の名を冠して、改称しようとした。だが、この最後の試みも、「非スターリン化」の方針によって反古にされた。

 不思議に思う人もいるかもしれない。この全体主義の指導者の名は、多くの都市や町に冠せられ、巨大な銅像やモニュメントが国のあちこちに建立されたというのに、首都に自分の名前を付けることを望まず、その試みにも断固反対だったとは奇妙だと。

 しかし、彼が虚栄心の欠如(?)を示したのは、それだけではなかった。スターリンが勝利勲章の受章から自分を外したこと、モスクワ大学に自分の名を冠するアイデアを却下したことを、我々は知っている。