レーニンとスターリンの革命前後の収入は:どんな仕事でどのくらい稼いでいたか

Global Look Press; Aleksandr Demyanchuk/TASS; MartinHansV(CC BY 3.0)
 レーニンは翻訳者として働き、スターリンは気象台に勤めたことがある。もちろん、それが彼らの生涯最高の給与だったわけではない。

 ソ連最初期の指導者たちが権力を握ったとき、彼らは「土地を農民へ!製粉所と工場を労働者へ!」とのスローガンを掲げ、共産主義の下では貨幣交換システムはないと約束した。 しかし、レーニンやスターリンのような人々は、ある程度の個人的な富を持っていた。ソ連共産党の指導者が彼らの教説を実践したかどうか見てみよう。

 

ウラジーミル・レーニン(1870~1924年)

ロシア革命の前

ウラジーミル・レーニンの両親

 ソ連の建国者、ウラジーミル・レーニンの父であるイリヤ・ウリヤノフ(1831~1886年)は、仕立て屋の家庭に生まれたが、まさに刻苦勉励し、1877年、46歳になるまでに、4等文官(省の局長クラス)の地位に昇り、世襲貴族に列せられていた。ウラジーミルは当時7歳だった。未来のソ連共産党指導者は貴族の息子だったわけだ。

 ウラジーミルの家庭は、所有する土地からの収入にかなり依存していた。実は、ウリヤノフ家は不在地主だったのである!一家は、レーニンの母方の祖父で貴族のアレクサンドル・ブランクからもある程度の土地を相続していた。土地はぜんぶで一家に年間2500ルーブル以下の収入をもたらした。

 ウラジーミルは、成長し教育を受けると、家庭教師や翻訳などフリーランスの仕事を始めた。1899年に彼は、大著『ロシアにおける資本主義の発展』を著し、2400部を刊行して、250ルーブルを得た。これは、高級将校の月給2ヶ月分に相当した。こうした収入は、レーニンの母親からの仕送りに加えると結構な金額になった。仕送りは年に3~4回で、約300~500ルーブルずつだった(地代収入)。

 1916年までに、ロシア帝国の没落にともない地代収入は減り、その後完全になくなった。ウラジーミル・レーニンと妻ナデジダ・クルプスカヤはごく慎ましい生活をし、時折外国の共産主義者からの送金で急場をしのいでいた。  

 

革命後

 1917年12月、レーニンは500ルーブルの給与を自分に割り当てた。これはソ連初の行政府「人民委員会議(ソヴナルコム)」の議長としての給与だ。1918年3月には800ルーブルに引き上げられたが、これはソヴナルコム最高の給与額ではなかった。いく人かの人民委員(大臣)のそれは2千ルーブルに達していた。

 しかし、革命後の状況下、インフレ率が急上昇していたから、これらの数値はどれもほとんど意味がなかった。重要なのは、レーニンが給料ではなく、無制限の権力とリソースを活用できたことだ。とはいえ、レーニンが国家を指導したのはわずか数年にすぎなかった。1922年夏の後、彼は病気の進行のせいでほとんど活動できなくなっていた。そして彼の立場は、ヨシフ・スターリンに取って代わられた。

 

ヨシフ・スターリン(1879~1953年)  

革命前

23歳のヨシフ・スターリン

 ヨシフ・スターリン(本姓はジュガシヴィリ)は、神学校生徒だった15歳の頃から早くも、マルクス主義や社会民主主義の学生グループと接触していた。1899年5月、彼は試験を欠席したかどでトビリシ神学校から放校処分となった(トビリシはグルジア〈ジョージア〉の首都)。しかし彼は教師の免状を取り、しばらくは家庭教師として働いていた。彼の収入がどの程度だったかは不明だが、生計を立てるには不十分だったようだ。 1899年12月、彼はトビリシ気象台の気象局員となる。

 1901年3月、警察は、ジュガシヴィリの革命活動の件でトビリシ気象台を捜索。彼は永久に地下に潜らなければならなかった。以来、彼はもっぱら革命活動を行い、秘密会合およびボリシェヴィキ間の接触を組織した。彼が次に給与を受け取るのは、ソビエト政権下となる。

 

革命後

 最初のソビエト政府でスターリンは民族問題人民委員となった。その後、彼の生活は明らかに、政府の与えるもののみで支えられたようだ。しかし彼は、より多くの権力を獲得するにつれて、より多くの特権をも獲得していった。自家用車、別荘(ダーチャ)、ホームドクター、シェフ、メイド…あらゆるものが提供された。

 ステパン・ミコヤン(1922~2017年)はパイロットで、スターリン時代に商工人民委員(貿易大臣)を務めたアナスタス・ミコヤン(1895~1978年)の息子だが、そのステパンはこう振り返る

 「結婚するまで、私は父の家で暮らしていた。我々の食料品は無料だった。1948年まで、私の家族は食事代をまったく払っていなかったのに、注文したものはすべて手に入った。食品はアパートだけでなく、ダーチャにも届けられた。そこに我々は親戚と一緒に住んでおり、いつもたくさんの友達がいた。ダーチャ、料理、サービス等々、すべてが無料だった」

 国の指導者スターリンにとっても、すべてはこんな感じ、いやそれ以上だった。しかしスターリンは、最高幹部にさえ、ことさらにその立場を誇示することを認めなかった。ステパン・ミコヤンの回想によると、1948年にいく人かの大臣の妻が政府の仕立て屋の代金を払っていないことを、スターリンは知り、激怒した。その前後に、すべての党幹部の給与が引き上げられたが、「無料」の食事とサービスへのアクセスは制限された。

 「1948年以降は、月に約8千ルーブル分の食品しか注文できなかった。その額を超えるものはすべて支払わねばならなかった」(月額900~1200ルーブルは、当時としては非常な高給とみなされていた)。そのうえ彼らは、ベビーシッターとメイドを置き、党幹部専用の特別な店で買い物をすることができた。

 大臣たちの昇給は相当なものだった。ステパン・ミコヤンの回想では、彼の父の給与は1948年以降、月2千ルーブルから8千ルーブルに跳ね上がり、スターリンは自分の給与を1万ルーブルにした。しかし、ステパンは気づいた。こんな額は、「全能」のオールド・ボリシェヴィキたちにとっては「小遣い」にすぎなかったことを。彼らは、革命中および革命後に帝国の「遺灰」から大金をかき集めたと言われるから。

 もちろん、スターリンは自分の出費を削らなかった。何しろ彼は無一物だったのだから――少なくとも彼の意見ではそうだった。これに関連して、よく知られた小話がある。

 あるときスターリンは、故郷のグルジアに出かけた。するといく人かの古い革命家仲間が彼に近寄って来て、少し金をくれないかと頼んだ。スターリンは帽子を脱いで、自分のボディーガードたちにそれを回し、仲間のために数百ルーブルを集めた。

 しかし、スターリンはレーニンと同様に著作家でもあった。彼の「全集」は、ロシア語版だけでも50万部以上発行された。それ以外の著作も、単行本で刊行され、各ソビエト共和国の言語に翻訳されている。これらはすべて彼に支払われた。つまり、スターリンは巨額の印税を手にしたわけだ(部数を考えれば膨大な額だったろう)。

 これらすべてのお金はどこに行ったのか?不明だ…。何者かが、スターリンの死後に「スターリンのロッカー」を開けたという伝説があるが、信じるに足る根拠はない。我々に確信できることは、彼がそれを墓場の彼方に持ち去りはしなかったということだけだ。

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