いかにして囚人がソ連最高の兵器を作ったか(写真特集)

MAMM/MDF/russiainphoto.ru; NKVD archive; Bundesarchiv
 ソビエト指導部は数百人の学者を収監し、そこで国家のために専門の仕事をさせた。プロジェクトが成功すれば、囚われの学者はソ連の最高賞を受賞することもあった。

1. 1930年代、ソ連で前代未聞の出来事が起こった。なんと赤軍の最新兵器の開発が囚人に任されたのだ。密告(同僚間の嫉妬による虚偽の密告も少なくなかった)によって容易に刑務所や矯正労働収容所に送られた大弾圧の時代、数百人の学者、設計者、技師が投獄されていた。パイロットのミハイル・グロモフはこう記している。「逮捕は往々にして航空機設計者同士の密告の結果だった。各々が自身の飛行機を称賛し、他者を破滅させていた」。

2. 有罪判決を受けた学者らは、「人民の敵」と宣言され、裏切りやスパイ行為、ソビエト国家に対する妨害行為の嫌疑をかけられたとはいえ、ただシベリアの森を伐採させるにはあまりにも貴重な知識と専門のノウハウを持っていた。

3. こうして刑務所の隠語で「シャラーシカ」(原義は「太い棒」)と呼ばれた「特殊設計局」ないし「特殊技術局」がソ連に現れた。有刺鉄線で囲われた監獄の中、自動小銃を下げた内務人民委員部職員の監視下で、囚われの学者らは国防の仕事で「罪を償った」。

通信研究所(マルフィノのシャラーシカ)

4. 「シャラーシカ」の生活条件は、通常の刑務所より遥かに良かった。清潔で白いベッドのシーツ、シャワー、図書室、タバコ、茶請けのパイとクッキー、そして仕事部屋。敷地内の清掃は免除され、代わりに自由契約の清掃員が雇われていた。とはいえ、ここはリゾートではなかった。「労働人民の敵」であることを忘れさせないため、内務人民委員部の職員が学者らにことさら厳しい態度を取ることも珍しくなかった。 

5. 何十人もの国家最高の専門家が「特殊設計局」での労働を経験した。1961年にガガーリンを宇宙に送った「ソビエト宇宙航空学の父」セルゲイ・コロリョフ、史上最も量産されたソ連の爆撃機Pe-2を作ったウラジーミル・ペトリャコフ、ソ連の主力戦闘機I-15 bis、I-16、I-153を開発したニコライ・ポリカルポフ、その他多くの航空機、戦車、大砲、潜水艦の設計者、化学者、建築家、数学者、鉱山技師らが獄中で働いた。 

セルゲイ・コロリョフ、1940年2月29日

6. まさにこの「特殊設計局」で第二次世界大戦中のソ連の主力爆撃機Pe-2とTu-2、近代化された45 mm対戦車砲が開発され、水陸両用戦車T-37、自走砲Su-152、その他多くの兵器が作られたのである。しかし、「シャラーシカ」で開発されたのは兵器だけではなかった。内務人民委員部の執務室、モスクワ・クレムリンの会議場、レニングラードのカーメンヌイ島に立つ政府関係者の別荘の装飾デザインもここで生まれたのだ。 

自走砲ISU-152

7. 注文はクレムリンから来ることもあれば、地方政府から来ることもあった。アブハジア共産党中央委員会からは汽船セヴァストポリ号とヨット、内務人民委員部のG-4小艇の内装デザインを命じる指示が来たが、プロジェクトは首尾良く遂行された。

高速魚雷艇G-5

8. ソビエト空軍の新しい戦闘機を同時にいくつもの設計局が開発し、その一つが監獄で生活して働く「人民の敵」で構成されるという逆説的な状況が生まれた。囚われの学者集団が自由の身の学者集団よりも大きな成功をつかむことも珍しくなかった。 

爆撃機Pe-2

9. 第二次世界大戦が終わると、ドイツ人専門家(大部分がエンジン製造、弾道ミサイル・核兵器開発の専門家)が働く「シャラーシカ」がドイツのソ連占領地にもソ連本土にも現れた。一部は戦争捕虜の中から集められたが、かつての敵のために働くべく自分の意思でやって来た者もいた。ここでは(ソビエトの基準では)良い生活条件と給料が彼らを待っていた。とはいえ、彼らの自由はかなり制限された。与えられた休暇も学者らは町の領域内でしか過ごせず、内務人民委員部に注意深く監視されていた。

内務人民委員部の労働コミューン

10. 監獄発のプロジェクトが成功すると、それはしばしば学者やその同僚にとって免罪符や自由への切符となった。釈放された専門家らは告訴を取り消され(ただし、1940年に出所して2年後に悲劇的な死を遂げたウラジーミル・ペトリャコフは、1953年になるまで完全には無罪にならなかった)、権利を回復され、働く場所を返された。さらに、かつての囚人が自身の成果によってソ連最高賞の一つ、スターリン賞を受賞し、「人民の敵」が国民的な英雄になることさえあった。

ウラジーミル・ペトリャコフ

11. 「シャラーシカ」の歴史はスターリンの死とともに幕を閉じた。1953年の後、こうした施設はすべて閉鎖された。その多くが設備を改めて通常の科学研究所となり、現在も活動を続けている。

内務人民委員部の労働コミューン

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