レーニン廟上の外国の指導者や賓客たち(写真特集)

Anatoly Gagarin/Sputnik
 ソ連の指導者たちは、祝日などに通例、「赤の広場」のレーニン廟のひな壇に登った。彼ら以外に「ソビエト・オリュンポス」に登る名誉を与えられたのは誰か?

 ソ連の建国者で最初の指導者だったウラジーミル・レーニン。彼の遺体がエンバーミング(永久保存)の処置を施されて安置されたのがレーニン廟だ。これは、共産主義時代の「赤の広場」で最も有名なランドマークだったろう。

 レーニン廟は、かつてはソ連共産党の主要な指導者と英雄のためのひな壇として機能していた。まるで神々がオリュンポスに登るように、ソ連のエリートたちは、主要な祭日やデモンストレーションに際してその階段を上り、拍手喝采を浴びていた。

 しかし時には、党幹部でもなければ政治家でもない人たちも壇上に登った。例えば、国民的英雄、宇宙飛行士、そして当局から称賛された作家などだ。外国からは、ごく少数の賓客がひな壇に招かれた。ロシア・ビヨンドが、そのうちの何人かをまとめた。

ドワイト・アイゼンハワー(アメリカ)

ドワイト・アイゼンハワー(左から2人目)とヨシフ・スターリン(左から3人目)

 1945年6月、将来の米大統領は、1945年6月にモスクワを訪問して戦勝パレードに出席するよう招かれたが、出席できなかった。しかしその後、1945年7月に、スターリンとともに、体育・スポーツの祭典に出席。アイゼンハワーは、レーニン廟のひな壇に登った、米国初の要人となった。

 それから間もなく、米ソ関係は悪化して、冷戦が始まり、西側の指導者たちはソ連では歓迎されざる客となる。いわんや、共産主義の「信仰」の祭壇には、彼らの席はなかった。

ゲオルギ・ディミトロフ(ブルガリア)

ゲオルギ・ディミトロフと母親

 ディミトロフは、ソ連が統括した共産主義運動の国際組織「コミテルン」のメンバーで、1933年に、ベルリンで起きたドイツ国会議事堂放火事件に関与した容疑で告発されている。しかし彼は、法廷で熱弁をふるって共産主義を擁護し、国家社会主義(ナチズム)を糾弾、検察側を論破して釈放された。その後はソ連に招かれ、ソビエト市民権を与えられて、コミンテルン書記長となる。

 彼は、「ブルガリアのレーニン」とも呼ばれ、メーデーに赤の広場で労働者の行進を観閲したこともある。写真では、彼は母親と一緒に登壇している。興味深いのは、彼の死後、ブルガリアに彼の廟が建てられたことだ。

ロマン・ロラン(フランス)

ロマン・ロラン(左から2人目、帽子をかぶっている人)とマクシム・ゴーリキー(右)

 ロマン・ロランは、ソ連の「親友」の一人だ。1935年に彼は、作家マクシム・ゴーリキーの招きでモスクワを訪れた。フランスの作家は、モスクワのゴーリキー邸に1か月滞在し、スターリンとも会って、魅了されている。

 ゴーリキーは、最も愛されたソビエト・プロレタリア作家として、レーニン廟のひな壇にしばしば登った。ロマン・ロランが訪ソしたときは、ともに登壇して、体育・スポーツの祭典のパレードを観閲した。ロマン・ロラン(帽子をかぶっている)は、「半裸」のアスリートの行進の壮観に感嘆した。

アンドレ・ジイド(フランス)

演説を唱えているアンドレ・ジイド(左)とヨシフ・スターリン(右から2人目)

 ソ連のもう一人の「友人」で、フランスの有名作家であるアンドレ・ジイドは、1936年にモスクワを訪問した。彼は、マクシム・ゴーリキーの葬儀に参列し、レーニン廟で演説した。しかし、ソ連を旅したジイドは、この国の新体制とスターリンへのロマンティックなイメージを失い、フランスに戻ると、ノンフィクション『ソヴィエト紀行』の中で、否定的な実態を暴露した。結局、彼の作品はすべて、ソ連で発禁となった。

毛沢東(中国)

毛沢東とニキータ・フルシチョフ(左から3人目と4人目)

 中国で最も有名な共産主義者と言えば毛沢東だ。彼が外国旅行したのは2回だけで、いずれも行く先はソ連だった。

 最初は1949年。スターリンの70歳の誕生日を祝うために訪れた。それから1957年に、フルシチョフとともにレーニン廟の壇上から革命記念日を祝った。

 毛沢東は死後に、やはり霊廟を築かれた――それもレーニン廟より大規模な。 

フィデル・カストロ(キューバ)

フィデル・カストロとニキータ・フルシチョフ

 このキューバの革命家は、ソ連では生ける伝説であり賓客だった。彼はソ連を数回訪れ、レーニン廟のひな壇にしばしば登っている。

 1963年、カストロはソ連に1か月滞在し、ニキータ・フルシチョフと肩を並べて、レーニン廟の壇上からメーデーのパレードを観閲した。その後、5月23日には、やはりレーニン廟の上から2時間にわたる演説を行う。1987年、カストロは再びレーニン廟から、ミハイル・ゴルバチョフとともに革命記念日のパレードを見た。

ヴァルター・ウルブリヒト(ドイツ民主共和国 〈東ドイツ〉)

ヴァルター・ウルブリヒト(左)

 ヴァルター・ウルブリヒトは、ドイツ共産党(後にドイツ社会主義統一党)の創設者であり、東ドイツの政治家だった。1969年、東ドイツの国家元首である国家評議会議長として、革命50周年を祝うためにソ連を訪れた。

周恩来(中国)

周恩来(右)

 中国の共産主義者、周恩来とソ連との関係は長い。1930年代には彼は、中国人学生をリクルートして、モスクワの東方勤労者共産大学へ送っていた(この大学は略称「クートヴェ」。コミンテルンが植民地と発展途上国の共産主義者養成のために開設した)。1964年には、周恩来はすでに中華人民共和国の首相として、革命記念日を祝うためにモスクワを訪れ、レーニン廟上に上がった。

アロイス・インドラとヴァジル・ビリャーク(チェコスロバキア)

レオニード・ブレジネフとアロイス・インドラとヴァジル・ビリャーク

 この二人の共産主義者の政治家は、非常に親ソ的であり、チェコスロバキアの自由化(いわゆる「プラハの春」)に反対し、ソ連からの「友好的支援」を主導。つまり、チェコスロバキアへのソ連軍戦車の侵入を支持した。二人の「忠誠」はソ連から評価され、1968年の革命記念日の祝賀に合わせてモスクワに招かれた。

モハメド・アン=ヌメイリ(スーダン)、グエン・フー・ト(ベトナム)

グエン・フー・ト(左)とモハメド・アン=ヌメイリ(左から2人目)

 1969年の革命記念日に、二つの同盟国の指導者がモスクワに招かれた。

 一人は、スーダンの大統領、モハメド・アン=ヌメイリ。彼はこの時までに、軍事クーデターで権力を握り、この国を「左旋回」させて親ソにした。

 もう一人の賓客はグエン・フー・ト。南ベトナムの解放戦線中央委員会幹部会議長だ。彼は社会主義者で、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を率いていた。

レ・ズアン(ベトナム)

レ・ズアン(左)

 ベトナムの指導者たちは、ソ連にしばしば招かれた。ベトナム戦争終結後の1978年、初代ベトナム共産党中央委員会書記長だったレ・ズアンは、ソ連に招かれ、11月の寒空の下、革命61周年を祝い、パレードを観閲した。

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