中国の「赤ひげ」はいかにロシアを脅かしたか:満州を舞台にした馬賊の興亡

歴史
ボリス・エゴロフ
 数十年間にわたり、ロシアも中国も、中国の騎馬武装集団「紅鬍子(赤ひげ)」、いわゆる馬賊の残酷で容赦ない襲撃に対処できなかった。しかも彼らは、通常の強盗、略奪行為に加えて、極東の重要な政治状況にかかわっていた。

 獣じみた奇声を上げ、罵言を放ちつつ、青龍刀などの武器を振り回して、おまけに鬼や妖怪の仮面をかぶって村に殺到し、行く手の者すべてを略奪し、邪魔者は殺した。彼らは、中国の騎馬武装集団「紅鬍子(赤ひげ)」、いわゆる馬賊として知られ、半世紀以上も、中国東北部(満州)とロシア極東の住民を恐怖に陥れた。

「義兄弟たち」

 19世紀後半~20世紀初頭にかけて満州とロシアの沿海地方で活動した騎馬武装集団が、なぜ「紅鬍子(赤ひげ)」と呼ばれたのか?そのわけは正確には分かっていない。最も一般的な説は、彼らが付け髭で変装したのと関係あるという。

 「赤ひげ」は、安直に金儲けしたい者、清軍からの脱走者、中国本土から満州へ移住した者などで、膨れ上がっていった。これらの移民は、鉱山での重労働などより強盗略奪を好んだから。

 「身汚く、ボロをまとい、いつも腹ペコで、毎日、雨の中でも、ぬかるみの中で仕事をしている…。こういう人間の暮らしに何か喜びがあるか?…血沸き肉躍る馬賊の群れに身を投じるのも不思議はない」。1896年に新聞「ウラジオストク」はこう書いている

 赤ひげの一つの群れは、二、三百から数百人にものぼった。大規模な作戦を遂行する際には、いくつかの群れがまとまって、恐るべき勢力になり、小都市をも脅かした。

 「赤ひげ」は決して、森の中を流浪している見汚い浮浪者ではなかった。しばしば立派な身なりをし、武器も優れ、時にはふつうの商人​​と区別できないほどだった。

 同じ「赤ひげ」の仲間は、お互いに忠実であることを誓い、「義兄弟」となり、自分の頭目に絶対服従だった。しばしばこの手のボスは、コワモテの厳めしいあだ名を持っていた。例えば、ヤン・ユリンという頭目は、「十四代目の閻魔大王」と呼ばれていた。

 「赤ひげ」の強盗略奪は、森の中に隠れやすい春と夏に行われた。この時期は、最高に厳格な軍紀が課せられたが、秋と冬にはリラックスできた。「義兄弟たち」は都市部に出かけ、酒場で女、酒、阿片三昧の日々を送った。「赤ひげ」の親分の一人にいたっては、「冬休み」に劇場の舞台に立ったことさえある。

中国からロシアまで

 満州は、盗賊が跋扈するのにおあつらえ向きの場所だった。人口まばらな原野で、遥かかなたの首都、北京からの統制は不十分であり、地元行政のリソースは、馬賊と効果的に戦うには足りなかった。

 しかし、「赤ひげ」の強盗略奪は、満州の村々だけに限らなかった。近隣には、ロシアの広大なウスリー沿岸地域があり、満州と同じ災難に見舞われていた。この地域は、十分な植民がなされていなかったから。

 こんな状況では、ロシア帝国と清帝国の国境が効果的に守られていたはずがなかった。中国領土を拠点とする「赤ひげ」は、ロシアの沿海地方に簡単に侵入し、また戻ってきた。

 また、この盗賊たちはわざわざ中国領に戻る必要がない場合もあった。「赤ひげ」は、ウスリー流域の中国人(いわゆる「蛮子」)を脅して、食べ物や宿を提供させたり、逆に彼らに手を貸したりした。 しばしば「義兄弟たち」は、地元民に金銭を与えて信頼させ、「西方の蛮人」に奪われた中国固有の領土の解放のための戦いを宣言したりした(1858年のアイグン条約、1860年の北京条約により、黒竜江以北およびウスリー川以東の「外満洲」はロシアに割譲されていた)。 

蛮子戦争

 「赤ひげ」はロシア領では、強盗、牛泥棒、阿片密輸、金の違法採掘などを行っていた。この違法採掘が、「赤ひげ」とロシア軍との最初の大規模な武力衝突につながった。

 「義兄弟たち」は、常に自分で金を採掘したわけではなく、しばしば中国人の鉱山労働者を有料で保護した。1867年、小さな島「アスコリド」で金が見つかった。これは、軍事基地、ウラジオストク(1880年に都市となった)から50キロの地点にあった。何百人もの「蛮子」が「赤ひげ」とともに、運試しにそこへ赴いた。

 ロシア帝国の汽走スクーナー「アレウト」の水兵は、金山の違法採掘者を数回追い散らしたが、彼らはまた戻ってきた。そしてついに、武力衝突でロシアの3人の水兵が殺される。島から慌ただしく出航するロシア船の眼前で、「赤ひげ」がその死体をこれ見よがしに切り刻んだ。

 ロシア政府による、違法採掘者を駆逐する試みは、蛮子戦争として知られる一連の小競り合いで終わった。1868年の春と夏に、「蛮子」が「赤ひげ」は、ロシアの軍事拠点を襲い、いくつかの村を略奪して焼き、そこに住んでいた農民の家族を皆殺しにした。

 報復として、ロシア軍は、盗賊を匿った「蛮子」の住む数か村を焼き払った。7月半ばまでに、強盗団は、殺害されるか満州に追い戻された。

ロシア軍が中国領の馬賊に急襲をかける

 「赤ひげ」がロシア領を荒らし回った後で中国領に戻ったことで、ロシア当局は地団太踏んだ。強盗たちを追跡した部隊は、何度も国境でなすすべもなく立ち止まらざるを得なかった。

 ただし、このルールは常に遵守されたわけではない。ときにコサック部隊は、それと知らずに、あるいはわざと、中国領に侵入した。あるとき、「赤ひげ」を追いかけたウスリー・コサック部隊は、満州の奥深く数百キロにわたって侵入した。

 1879年、ロシア軍は故意に中国領に入り、ハンカ湖の近くで、堅固に要塞化された「赤ひげ」の拠点を焼き払った。

 しかし、こういう襲撃が中国側から見過ごされないこともあった。同年、国境を越えたノジン少佐率いる部隊が清政府軍に遭遇し、その結果、小規模な戦闘が起きた。今回はもうロシア外務省のほうが、この事件で謝罪しなければならなかった。 

 中国政府は、こうした国境侵犯には常に不満を抱いていたが、中国の地方行政にとっては、「赤ひげ」による被害のほうがはるかに重大だった。地方の首長たちは密かに、自分らの地元で盗賊を掃討し続けるよう、ロシア側に再三要請した。

「赤ひげ」と政治

 20世紀初頭、ロシア極東と中国で重大事件が次々に発生し、「赤ひげ」はこれに加わらざるを得なくなった。まず1899~1901年に、欧州列強の支配に抗する義和団事件が勃発。「赤ひげ」は、敗北した清軍の残党としばしば合流し、ロシア軍と戦った。「赤ひげ」の強盗としての素性は隠れもない事実だったが、多くの中国人は彼らを、外国からの侵略に対する最後の盾、祖国防衛者として見ていた。

 1904~1905年の日露戦争中には、「義兄弟たち」は、金をもらえば、ロシアのためにも日本のためにも働いた。例えば、彼らは日本側から、満州の東清鉄道の破壊工作を委ねられた。ロシアは、三国干渉の見返りとして清国から満洲北部の鉄道敷設権を得ており、これがその鉄道だ。極東のロシア軍の主要な補給線である。

 日露戦争中に「赤ひげ」は、その破壊を512回も試みたが、大きな成果を上げたのは1回だけ。すなわち、1904年1月31日、橋の一部が、公主嶺駅の北で爆破された。

 1911年の清帝国が、1917年にロシア帝国が相次いで崩壊したことで、極東に動乱とカオスがもたらされ、「赤ひげ」にはとても快適な状況になった。ロシアの内戦に際しては、彼らは地元民の略奪を続け、しばしば白軍、赤軍の、さらには日本軍の傭兵となった。日本軍は、いわゆるシベリア出兵で、1918年4月にウラジオストクに上陸していた。

 中国ではこの頃、軍閥の分裂、抗争が起きており、「赤ひげ」は空前の高みに上った。もともと馬賊の頭領であった張作霖(ちょう さくりん)は、満州の事実上の支配者になっただけでなく、1928年6月まで、中国全土の主権者を名乗っていた。彼はまた、「義弟」の(ちょう そうしょう)張宗昌を山東軍務督弁に任命し、同省の支配者とした。彼は、日露戦争中に自分の馬賊の部隊とともにロシア軍に従っていた。

 1930年代に入ると、「赤ひげ」時代は下降線をたどり始める。ソビエト政府は、中国との国境の警備を大幅に強化し、沿海地方における犯罪の問題に真剣に取り組んだ。一方、日本は、その関東軍の参謀、河本大作大佐の謀略で、1928年に張作霖を爆殺し、「赤ひげ」を、ソ連同様に効果的に掃討していき、3年後には満州を占領した。1940年代初めまでに、「義兄弟たち」はもはや、極東で重要な役割を果たさなくなっていた。

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