左:乾隆帝(在位期間1736-1796)の肖像画。右:戴冠衣装を着たロシアの皇帝、パーヴェル1世(在位期間1796-1801) の肖像画。
Wang Jin, The Palace Museum / Vladimir Borovikovsky, The State Russian Museum左:「平安春信図」郎世寧。清朝、乾隆帝の統治期(1736–1796) 。右:「ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが帝位に就くように要求される」、グリゴリー・ウリュモフ。
The Palace Museum/Wang Jin / Grigory Ugryumov/Tretyakov Gallery第一の類似点は、ロマノフ朝と清朝の君主がそれぞれロシアと中国を統治していた時期がほぼ重なること。ロマノフ朝の初代ツァーリ、ミハイル・フョードロヴィチは、1613年にロシアの帝位に就いた。その約30年後、1644年に、清の第3代皇帝、若き順治帝は、明王朝の軍隊を打ち破り、北京を陥落させた。
ロマノフ朝と清朝の支配の終焉もほぼ同時だ(1917年と1912年)。いずれも革命で打倒された。
ただし、違いもある。清朝は、満州出身の異民族であったから、事実上、中国を征服したことになる。その際、前の王朝である明朝の脆弱さと不人気を利用して民衆の大部分を自分らの側に寝返らせた。これとは逆にロマノフ家は、17世紀初めのいわゆる「大動乱」の時代に、外国の侵略者、スウェーデンとポーランドとの戦いのなかで台頭している。
にもかかわらず、いずれの王朝も、過去の残骸――リューリク朝のロシアと明の中国――の上に新たに国を築き上げた点では同じだ。だから、多くの物事を改める必要があった。
ロシアですべてを変えた改革者となったのがピョートル大帝(在位1682~1725)だ。彼は、「帝国」と「皇帝」を宣言し(中国では紀元前221年から誇らしげに帝国を称していた)、抜本的改革を断行し、バルト海の覇者、スウェーデンとの「大北方戦争」(1700~1721)で勝利し、その結果、ロシアを欧州列強の位置に押し上げた。
左:清朝時代(1644-1912)の皇帝の王座。右:ロシアの皇帝、パーヴェル1世の王座。
The Palace Museum/Wang Jin / Dave Bartruff/Global Look Press中国清朝の初期の皇帝たちもまた、可能なかぎり国を近代化しようと努めた。例えば、康熙帝(在位1661~1722)は、税制改革を行い、農民を余計な税の圧迫から解放した。これは経済成長と人口急増につながった。
ロシアのように中国もまた、ヨーロッパの国々と戦わなければならなかった。17世紀末には、明の復興を目指した軍人、鄭成功が、台湾を統治していたオランダを破った。その後、清は台湾を支配下に組み込む。清の外征は台湾に限らず、モンゴル、新疆、チベットを征服し、中国帝国の版図は史上最大に達した。
左:皇帝の絹の式服、嘉慶帝の統治期 (1735-1796)。右:ロシアの皇帝、アレクサンドル1世の戴冠衣装。
The palace Museum/Wang Jin / Shakko/wikipedia一方、ロマノフ朝は、ロシア帝国にますます多くの土地を併合していった。18世紀~19世紀に、ポーランドからアラスカにいたる巨大な領域がその支配下に入った。千島列島にも進出する。
左:中国の皇后の式服、清朝時代。右:ロシアの皇后の戴冠 ドレス。
The Palace Museum/Wang Jin / Igor Zarembo/Sputnikこうして既に17~18世紀には、ロマノフ朝のロシアと清朝の中国はいずれも、大勢力となった。ロシアと中国の皇帝の意志は、何千万もの人々と広大な領域の運命に影響を及ぼした。二つの巨大国家の利益が交錯したのがまさにこの時点であったことは、驚くにあたらない。そして、接触はスムーズにはいかなかった。
17世紀末にロシアと中国にとってつまずきの石となったのが、中国の北方にあるアムール流域だ。ここへロシア人入植者たちは積極的に入り込み、無人の地を開拓し、最初の要塞を建設していった。
左:清朝時代の中国の短剣。故宮博物院。右:ロシアの短剣。19世紀末期。ロシア国立歴史博物館。
The Palace Museum/Wang Jin / Global Look Press清帝国はこうしたロシア人の浸透を警戒していた。中国の皇帝たちは、中国人がこの地域にほとんど住んでいなかったにもかかわらず、ここを自分たちの土地とみなしていたからだ。
1680年代、短期間の戦闘の後、ロシアと中国は1689年にネルチンスク条約を結んだ。これはどちらかというと中国に有利なものだった(ロシア側は、宿願であった不凍港を獲得できなかった)。こうしてロシアはアムール流域と極東の開発計画を一時的に放棄する。
18世紀には、清王朝はその権力基盤を強固なものとし、経済も成長した。中国は必要な物資はすべて自給自足し、織物と磁器の主要輸出国となった。皇帝は文化政策にも注力し、過去の文物を整理、復旧させ、辞書、事典を編纂した。
左:清朝時代、乾隆帝の統治期。右:ロシアのグジェリのジョッキ。18世紀。
The Palace Museum/Wang Jin / A. Sverdlov/Sputnikその一方で、中国は農業国にとどまっており、外界に対しては閉鎖的で、同時代の発明や経済システムをあまり知らなかった。
左:乾隆帝時代の印璽。右:ニコライ1世の国家の印璽。
The Palace Museum/Wang Jin / Vladimir Fedorenko/Sputnik18世紀のロシアは、「宮廷クーデターの時代」であったが、やがてエカテリーナ2世の「啓蒙専制主義」に取って代わられた。当時のロシアはもちろん、中国よりは開放的なヨーロッパの国だった。しかし、君主の専制はそのまま残り、経済も依然として主に農業に依存していた。
対外的な栄光と内部の深刻な問題とのギャップは、ロシアでも中国でも埋まらぬままであり、やがてそれが悲惨な結果をもたらした。しかし清朝の中国は、より早くそうした事態にぶつかり、より深刻に苦しむことになる。
19世紀半ばに、ロシアと中国はそれぞれ西欧諸国と戦い、敗北を喫する。ロシアはクリミア戦争(1853年~1856年)で、イギリス、フランス、オスマン帝国の連合軍に敗北。清朝の中国も、アヘン戦争(1840年代~1850年代)で、英仏の前に無力だった。そして西欧は中国に、この国を事実上西欧の植民地にする条約を押し付ける。
左:多羅菩薩の像、乾隆帝の統治期。右:ロシアのキリストのイコン、1677。
The Palace Museum/Wang Jin / Simon Ushakov/Wikipediaロシアもまたこの機をとらえ、中国に北京条約を結ばせた。これによりロシアは、アムール沿岸と極東(現在の沿海地方)に権益を得る。
ロシア帝国は、クリミア戦争で敗北したものの、さらに約60年間にわたり比較的安泰だった。だが清朝の中国は、改革の試みと経済の改善に向けての試行錯誤にもかかわらず、大変動に見舞われた。数十年間、断続的に民衆の反乱が頻発し、末期の皇帝たちはどちらかと言えば名目的存在に成り下がっており、諸外国が実質的に支配していた。
左:乾隆帝(在位期間1736-1796)の肖像画。右:戴冠衣装を着たロシアの皇帝、パーヴェル1世(在位期間1796-1801) の肖像画。
Wang Jin, The Palace Museum / Vladimir Borovikovsky, The State Russian Museum1910年代、二つの帝国は、革命――1911~1912年の辛亥革命と1917年の二月革命――の結果として消滅した。ロマノフ朝と清朝は倒れた。そして、ロシアでも中国でも、カオスの中からまったく異なる人々、勢力が国を立て直すことになる。
*3月15日、モスクワのクレムリンの博物館で、展覧会「故宮博物院の宝物展:18世紀中国の最盛期」がオープンした。展覧会では、清朝の宝物の数々を見ることができる。中国の皇帝たちの礼服、肖像画、権力の象徴、個人的な持ち物、宝石から食器にいたるまで、多種多様な展示物がある。
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