ロシア帝国VSチュクチ人:その長きにわたる熾烈な戦い

 17世紀、ロシアの入植者とその軍隊は、シベリア・極東にどんどん東進していったが、その前に立ちはだかったのが先住民族の一つ、チュクチ人だった。彼らは、強く巧妙で死を恐れぬ戦士であり、隣接する民族、部族すべてを畏怖させており、強敵ロシア人にも屈するつもりはなかった。

 ロシアによるシベリア、さらに極東の征服は、1581年にエルマークとのそのコサック軍がシベリア・ハン国への遠征を開始したときに始まると、一般に認められている。

 シベリア・ハン国の敗北後は、ロシアの遠征隊にはもはや手強い敵はおらず、新たな土地を征服、開発していく。

 この植民地化における主力は、依然コサックだった。コサックの中には、獲物を求めて自らヨーロッパ・ロシアを後にした者もいた。コサック以外には、傭兵と最初の開拓者の子孫が、征服の主力をなした。征服者たちは、川に沿って移動し、地元住民にヤサク(貢納)を課した。

 征服者、入植者にとっては、一箇所にとどまることは無意味だった。農耕に適していたのは、南シベリアの領域だけだったからだ。

チュクチ人の家族

 しかも、ロシアのツァーリは別のものを求めた。すなわち、ヤサクを支払える新しい臣民、そして交易できる商品だ。そして、シベリア北部は、良質の毛皮のとれる獣、魚類、アザラシの脂肪、セイウチの牙が豊富だった。 

 かくして、入植者たちはさらに東進し、要塞(木造の砦)を建て、地元住民からヤサクを徴収した。もちろん、流血をともなう衝突も起きたが、「新たな臣民」をめぐる問題は、多くの場合、力の証明によって解決された。しかし、このやり方はチュクチ人には効かなかった。コサックの「大鎌」は、チュクチという硬い石にぶつかった。

予想外に手強かったチュクチ人戦士

 チュクチ人は、驚くべき民族だ。彼らは自分たちを「本当の人間」とみなしていた。彼らが自ら名乗る民族名「ルオラヴェトラン」はそういう意味だ。そして彼らは、すべての隣人は「二流の生き物」にすぎぬと考えていた。当然、ロシア人もそうみなされた。

 ロシア人とチュクチ人はいつ初めて接触したか。これについての信頼できる資料はない。両者がアラゼヤ川の近くで1642年の夏に遭遇したという情報があるが、最初の接触は、おそらくそれ以前に起きているだろう。

チュクチ人のボート

 いずれにせよ、コサックたちは、この場所には「恐るべき」人々がいることを知っていた。エヴェン、エヴェンキ、ユカギール、コリャークなどの民族は、チュクチとの長年の対立、抗争をコサックに物語ったからだ。

 しかし、コサックのアタマン(首領)たちはそれを真剣に受け止めなかった。コサックらは、チュクチ人と接触すると、汝らチュクチ人は今やミハイル・フョードロヴィチ(ロマノフ朝初代ツァーリ)の臣民であり、ヤサクを支払わねばならぬ、と言い渡した。先住民たちはこれに同意しなかった。のみならず、武力衝突が発生し、セミョン・デジニョフも参加した。彼は、未来の大探検家で当時はコサックだった。

セミョン・デジニョフ

 その後、アタマンのエラストフは、ミハイル・フョードロヴィチにこの事件を伝え、チュクチ人との戦いは「一日中、夕方まで続いた」と述べた。戦いが長く続いた理由は簡単に説明できる。コサックたちは、先住民からこれほどの勇武を期待していなかったからだ。

 エヴェンやユカギールなら、銃砲を見るや、発砲を待たずに狼狽して逃げ散ったが、チュクチは全然違った。彼らは平然と「ガラガラ棒」に対応して、弓矢で応射した。

 よくあることだが、敵のメンタリティーに無知だったことで、コサックは敵を過小評価することになった。チュクチ人の人生はすべて、生存をかけての無限の闘いだ。しかも彼らは、平然と死を迎えた。コサックたちは、こういうことすべてを、しばらく後に思い知ることになる。

 だが、コサックは後退するつもりはなかった。極東の植民地化のプロセスは既に本格化しており、ロシアは文字通り、勇敢な先住民の土地でも踏ん張っていた。もう一つの理由は、セイウチの牙だ。これは非常に珍重されており、その獲得を諦めるのは馬鹿げていた。

セミョン・デジニョフの探検

 最初、コサックはチュクチ人と平和裏に交渉しようとしたが、うまくいかなかった。もちろん、コサックの首領は、模範的な外交官ではなかったが、とにかく先住民は譲歩しなかった。障害の一つは、「本当の人間」が生きていた「原始的」なシステムで、明瞭な統治、指揮の系統がなかった。

 チュクチには、最高権力に当たるものがなかった。それぞれの部族を長老が率いてはいたが、彼は部族の運命を決めることはできなかった。部族の者たちは、長老の言葉に耳を傾けることもあったが、その意見が大多数の意見と異なる場合、彼はあっさり殺された。そして、長老の位置は、より扱いやすい者が占めることになった。だから、コサックのアタマンは、いかなる方法でも先住民の意思に影響を及ぼすことはできなかった。この状況からの出口は一つだけ。そう、戦争だ。

 体制は原始的で、武器も単純ではあったが、この先住民は非常に危険な敵だった。彼らの鎧は、アザラシやセイウチの皮でできており、膝から首まで体を覆っていた。一部の戦士の鎧は、鹿の骨と角で作られていた。また、やはりアザラシやセイウチの皮から、チュクチ人は頑丈な盾を作った。

チュクチ人の鎧

 チュクチ人の主な武器は、弓、槍、短剣、投石器だった。彼らはこれらの武器の使い方を子供の頃から習っていたが、ロシア人に言わせると、「あまり上手くなかった」。捕虜になりそうな場合、チュクチ人は自害した。さらに、チュクチ人は、隣人たちを絶えず襲撃していたおかげで、戦術の観念を持っており、その点でも、他の先住民とは非常に異なっていた。

「本当の人間」は、巧妙な変装の達人であり、敵を欺き、罠に誘い込もうとした。各部族には「偉大なる戦士」がいた。チュクチ人には、敵を倒した後、手首に点の形の入れ墨をする習慣があった。当然、点の数が多いほど、尊敬され、権威が高まった。

チュクチの「征服者」とその死

 チュクチ半島への遠征、入植がはじまった時点で、約1万人の先住民がさまざまな部族に分かれてここに住んでいた。彼らはかなり頻繁に、鹿と縄張りをめぐって互いに争っていた。ロシア人の遠征隊と入植者は、これよりはるかに少なかった。コサックは数百人しかおらず、攻撃の主力は、他の先住民、つまりユカギール、コリャーク、エヴェンなどで、チュクチと抗争してきた人々だった。だが実際には、これらの先住民はほとんど役に立たなかった。彼らは、「本当の人間」を畏怖しており、戦闘が始まる前に逃げ出すこともよくあった。 

 入植者の主な拠点は、アナディリ要塞だった。これは、1652年に建設されており、セミョン・デジニョフも参加している。そして70年以上にわたり、この要塞は、コサックが比較的身の安全を感じていられる唯一の場所だった。この間ずっとチュクチは、「招かれざる客」を盛んに攻撃し続けた。ついに、帝都サンクトペテルブルクは、こういう状況にしびれを切らした。

アナディリ要塞

 大規模な軍事作戦を主導したのは、コサックのアタマン、アファナーシー・シェスタコフだ。彼は、チュクチ半島、カムチャッカ半島、およびオホーツク沿岸の占領を求められた。ドミトリー・パヴルツキー陸軍大尉が、補佐のために、シェスタコフのもとに派遣された。二人の指揮官は、力を合わせてチュクチを打ち負かさなければならなかったが、いずれも我の強い指揮官で、反りが合わなかった。それで1729年に二人は、それぞれに異なるルートで出発した。

 しかし、シェスタコフの遠征は、1年後に頓挫した。彼は、自分の部隊もろとも待ち伏せされて戦死した。パヴルツキーは、その数か月後にようやくシェスタコフの死について知った。その時までに、大尉は、コリャークと一緒に、いくつかのチュクチの部隊を壊滅させ、彼らの集落を見つけることができた。

 サンクトペテルブルクからの命令により、パヴルツキーは、先住民に対して思い切り残酷に行動した。コサックとコリャークは、誰も容赦せず、彼らの後には廃墟のみが残った。チュクチは、パヴルツキーから強烈な印象を受け、彼のあだ名ヤクーニンは、主たる敵の象徴となった。

 ちなみに、この戦いは、民俗学者ウラジーミル・ボゴラズが記録したチュクチ民話に反映している。民話の中で、ヤクーニンは最も仮借なき敵だ。金属の鎧と武器を持った白髪の老人として描かれているが、彼は、登場するすべての物語で、必ず死ぬ。この悪役の起源には、二つの説があり、一つはコサックの集合的なイメージであり、もう一つはパヴルツキーを直接描いたものだという。

 しかし、パヴルツキーはその血なまぐさい仕事を完遂できなかった。彼は少佐に昇進し、ヤクーツクに転属になった。しばらくの間、入植者とチュクチ人の間の衝突は止んだが、この平和は長くは続かなかった。1740年代初めになると、チュクチ人は再び近隣の部族を襲撃し、入植者の狩猟隊を襲い出した。パヴルツキーへの恐怖は徐々に消えていった。こうしてパヴルツキーは帰ってきた。

 だが、チュクチ人は抜かりなく準備を整えており、見事な戦いぶりを見せた。彼らは、アナディリ要塞の近くで鹿を盗み、パヴルツキー率いる部隊が出動するのを待ち構え、罠に誘い込んだ。敵の策略を知悉していたはずのロシアの指揮官は、拙速な行動のために死んだ。

 チュクチ征服の試みは1763年まで続いたが、ほとんど意味がなかった。国庫は莫大な損失を被った。アナディリ要塞の維持に130万ルーブルが費やされたのに、ヤサクからの収入は3万ルーブルにも達しなかった。だから、遠征打ち切りの決定は理にかなっていた。アナディリ要塞は撤去され、その住民は他の土地に移された。

ついに力では併合できず

チュクチ人の家族、1906年

 一見、これでチュクチ半島征服の物語は終わったようだが、そうではない。ロシア帝国の旗が消えるやいなや、フランスとイギリスはこの領域に関心を示し始めた。ロシアとしては、半島における英仏のプレゼンスは許容できなかった。そこで、エカテリーナ2世は、入植者に半島へ戻るように命じた。

 今度はロシア人はチュクチ人に対して、「力」ではなく「善」の立場から行動した。計画はうまくいった。毎年恒例の定期市では、コサックとチュクチ人は、商品を交換し、すぐに共通の利益を見出すことができた。

 もっとも、この先住民はヤサクを払わなかったし、帝国への彼らの臣従は形式的なものだった。チュクチ半島のロシアへの最終的併合は、ずっと後、ソビエト時代のことだ。

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