ロシアは本当の意味でヨーロッパの国と言えるのか?確かにそう言えるだろう。しかもそれは、ピョートル大帝(1世)が大改革を断行した時代以来だけではない。モンゴル帝国のバトゥ(チンギス・ハンの孫)が西方へ大遠征を行ったとき、ロシアは身をもってその猛攻撃を食い止め、欧州の発展に間接的な影響を及ぼしたが、そのときから既に欧州の一部と見られよう。
1241年にモンゴル軍は既にハンガリーに達し、神聖ローマ帝国の侵略は眼前に迫っていた。しかし、それまでにバトゥ軍は、ロシアの広大無辺な領域を横断して伸び切っていた。まるでロシアがモンゴル軍を飲み込んで、その戦士たちの力を使い果たさせてしまったかのようだった。これに似たことは、後にナポレオンに対して、さらにナチス・ドイツに対しても起きた。
しかし、この特大のサイズは、ロシア自身にとっても常に、何によらず事態を悪化させかねないもので、モンゴルもそれを嫌っていた。ロシアの公たちが熟慮して、自分たちの土地を取り戻そうなどと思いつく前に、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の首都から間接的にゆるやかに支配するほうがはるかに簡単だった。
ロシア人自身が単一の政府による一元的支配を実現するのに200年を要したのも同じ理由による。ロシアの公国はどれも、現在のベルギーやアルバニアくらいの大きさがあった(現在のトヴェル州だけでも、8万4千平方キロメートル強の面積がある)。
呪われた距離
ロシアには今のような形態の政府しか事実上あり得ないのも、やはり地理的条件による。中世ロシアでは、公国間の距離が非常に離れているので、中央からの一元的支配は常に大きな課題であり続けた。
概して我々は、国のサイズを外側から見ることに慣れている。そこで、ロシア人がそれを内側からどう感じているのか、いくつかの例を見てみよう。
郵便物について言えば、15~16世紀のモスクワ公国では、配達地点間の平均距離は45~110キロメートルに及んだ。モスクワからヨーロッパに手紙が送られるときは、国境内に達するまでにもう1か月かかっていた。すべての民間人が利用できる定期的な郵便サービスは、ようやく19世紀に確立されたが、小包が郵便局から発送されるのは週に2度にすぎなかった。
1820年代には、モスクワからサンクトペテルブルクに行くのに、少なくとも2日間はかかった(*文化の首都「サンクトペテルブルク」についてはこちら)。また、郵便局で借りられる遅い馬車で旅行した場合は、合計6日間を要した。馬は、時速12~15キロメートルで、毎日110~160キロメートル走るのが精一杯で、しかも定期的な休憩が必要だった。
ちなみに、この頃までにロシアはもう、東はハバロフスクから西はヨーロッパとの国境まで、領土を広げていた。1805年に、作家レフ・トルストイの遠縁に当たるフョードル・トルストイ伯爵は、極東からサンクトペテルブルクに戻るのに、馬に乗ったり歩いたりしなければならず、全旅程に一年かかった!
こうした状況すべてに対し、国の統治システムはどうしたか?中央の「言葉」(公式の法令を含む)が国の端に達するのに丸1年かかるような状況では、多種多様な僻地を治めるには、「代官」を置かなければならない。
これらの代官が権力を委ねられ、政府の意向を効果的に具体化し、帝国の法律、指令に従って法の支配を実現する…。となればいいが、彼らが巨大なフリーハンドを得たことは容易に想像できる。その自由がどう用いられるかは、彼らの人間性、つまり道徳的規範に左右された。
清廉な知事、総督の不足
歴史家・作家のニコライ・カラムジンは、各地域の「代官」、つまり知事や総督の資質がロシアの統治を成功させる鍵だと考えていた。
「清廉な知事を50人配置できれば、進歩が起きる」。彼はこう言った。
ロシアの国家システムを他の国と比較するときは、サイズを忘れないでほしい。ロシアの面積は、フランスの26倍、ドイツの47倍だ。しかも、独仏はどちらかといえば「大きな」国なのだ!
ある国の大きさを他の国と比べるのは非文化的だと信じている人もいるが、統治が国のサイズによってどれだけ困難になるかを考えることには意味がある。
例えば、非常な広域にわたる改革は、実施がほぼ不可能だ。ロシアでは1861年に農奴制が廃止された…公式には。ところがそれがシベリアのイルクーツクで起き始めるまでには、20年かかった。変化が国のある一部から別の部分に及ぶのに、これだけの時間を食ったわけだ。
広大さと距離は、常に犯罪にも関係している。ロシアでは姿をくらまし、完全に雲隠れするのは簡単だ。今日にいたるまで、数百キロにわたり人っ子一人いない場所がある。列車でロシアを横断するには1週間かかる。犯罪者にとっては天国だろう。
法律を守る人はいつでも人口密集地域またはその近くに住む傾向がある。ぽつんと立つ小屋や荒野の一軒家に住む人は例外的だ。強盗やクマに襲われかねないからだ。
ロシアの農民も、集団から離れて暮らすのが至難であることを承知していた。収穫などの農作業は、「オープシナ(共同体)」の一員として行うのが最善だ。こうした共同体の精神は生活全体に浸透した。
しかし、これは農民階層だけの話ではない。ロシアの貴族もまた、共同体の絆と相互扶助と協力関係で結びついていた。
以上見てくると、ロシアの地理的条件により、一方で国民の一体感、他方で権力の集中化が促されていることが分かる。
では、個人主義についてはどうだろうか?ロシア人が明らかに身につけている、個人の自立への努力は、これらの事柄とどういう関係にあるのか?
我々ロシア人は、心の底では集団志向であり、共同生活と友好的な協力を好む。精神の自主独立への努力に見えるものは、実は、その集団主義を補完していて、両者は一体なのだ。