子供たち
ソ連の重要な課題の一つが文盲解消だった。ソ連全土に新しい学校が作られた。成人向けの学校もあった。ロシア語とそれぞれの民族語が教えられた。子供たちは幼い頃から共産党とレーニンを愛することを教え込まれた。中央アジアの多くのピオネールが自分たちの共和国の首都やモスクワに行くことができた。
コルホーズ員
集団化、つまり個々の農民の経営の集団経営化は、中央アジア諸国でも例外なく断行された。国中からここへ人が流入した。彼らは農地を開拓し、農業を発展させていった。
労働者
中央アジアの工業化も急ピッチで進んだ。鉄道や工場、水力発電所が建てられ、水路が掘られた。ところで、ノルマ超えの記録を打ち立てる労働者、「スタハノフ運動者」を、モスクワは鼓舞し続けた。賞を与え、全国紙や雑誌で彼らの記事を載せた。
*詳しくはこちら:ソ連が生んだ超人労働者たち
民族的特色
モスクワの政府は、現地の産業の発展を支え、「エキゾチック」な製品の製造を評価した。中央アジア諸国がソ連おかげで、ソ連中心部の住民は絨毯を買い、壁に掛けて愛でることができた。また、とてもおいしい果物を食べることもできた。一方、中央アジアの住民は首都の設計者らの作る文明の利器の恩恵を享受し、草原でラジオを聞くこともできた。
建築
ソ連市民の大半は国外に出ることができなかったが、多くの人はソ連内の共和国を旅することができた。モスクワ市民はアルマトイやタシケントに特別ツアーで観光へ行くことができた。中央アジアの多くの都市に歴史的建造物が残っていたが、新しい建物はソビエト・モダニズムや構成主義の様式で建てられた。
アジテーション
中央アジアの多くの地名はソビエト風に改められた。カザフスタンのアクモリンスク(現ヌルスルタン)はソ連時代にはツェリノグラードになった。タジキスタンの首都ドゥシャンベはスターリナバードと呼ばれていた。大都市それぞれに決まってレーニン像が設置され、多くの建物がソビエト風のアジテーション・モザイク画で装飾された。街路はソ連の他の多くの街と同じく、「革命通り」、「ゴーリキー通り」、「平和通り」と名付けられた。
生活
ソ連内の中央アジア共和国は、イスラム教国のままだった。ソ連全土と同じく、宗教弾圧政策が取られ、無神論プロパガンダ活動が行われた。モスクは閉鎖され、破壊されることもあった。しかし、宗教体制は完全には崩れず、完全に国家の管理下に置かれた公式のムスリム組織が存在した。礼拝は禁止されなかったが、例えば、労働者はラマダンを公式に免除された。貧困者のための募金はと言えば、完全に禁止された。「貧困者のいない」ソビエト国家では、その必要がないことになっていたからだ。
ソ連の登山家とハイカーがパミール高原の山頂を目指して押し寄せた。
カザフ・ソビエト社会主義共和国には、流刑囚用の特別集落があった。ヴォルガ・ドイツ人はここへ移住させられ、クリミア・タタール人もここへ追放された。加えて、カザフスタンにはグラーグ(矯正労働収容所)がいくつかあった。最も有名なのが、「アルジール」(ALZHIR:アクモル売国奴の妻収容所)で、女性は夫が「人民の敵」と断じられただけでここへ送られた。
カザフスタンのステップにソ連初の宇宙基地が誕生した。現在もロシアが賃借して使用している。まさにここからユーリー・ガガーリンやワレンチナ・テレシコワ、アレクセイ・レオーノフが宇宙へ飛び立ったのだ。