ソ連崩壊の一因になった綿

このようにして、ソ連後期、綿の生産をめぐり、でっち上げと陰謀の汚職システムが拡大した。//ウズベク・ソビエト社会主義共和国、1976年

このようにして、ソ連後期、綿の生産をめぐり、でっち上げと陰謀の汚職システムが拡大した。//ウズベク・ソビエト社会主義共和国、1976年

Zelma/ロシア通信
 「綿事件」の汚職と陰謀の捜査は、ソ連後期の悲惨な経済状態をあらわにした。
ソ連では、綿は戦略的な原料であった。兵器生産の重要な要素というだけでなく、国民の手ごろな価格の服に不可欠な材料でもあった。//綿の収穫、ウズベク・ソビエト社会主義共和国、1973年
公式な統計によれば、1980年代初頭、ソ連は綿の収穫量で世界第1位であった。//アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国、1979年
 栽培されていたのは、中央アジアのウズベク共和国、キルギス共和国、トルクメン共和国、タジク共和国、カザフ共和国。  これらの共和国はソ連の一部だったものの、生活様式は他の地域とは大きく違っていた。//カザフ・ソビエト社会主義共和国、1988年
 大都市では社会主義的な法秩序が順守されていたが、田舎では封建制度が支配的であった。//タジク・ソビエト社会主義共和国、1980年
 共和国の中央部が必要としていた綿は、一部の地域にとって災難であった。特に、ウズベク共和国でたくさん栽培されていた。//ウズベク・ソビエト社会主義共和国、1972年
1976年2月、ウズベク共和国のシャラフ・ラシドフ第1書記は、年間400万トンではなく、550万トンに生産を増やすと話した。//ウズベク・ソビエト社会主義共和国、1973年
 これらの義務はウズベク共和国の住民にとって、ほとんど奴隷契約であった。というのも、誰もがすでに、綿の収穫に参加していたためだ。児童でさえ、綿畑から綿を完全に収穫し終える新年まで、学校で勉強していなかった。//アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国、1979年
人的資源を最大限に活用しても、このような量の綿を栽培するのは不可能であった。//トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国、1978年
徐々に、さまざまなレベルで、数字をでっち上げる巨大なシステムができあがっていった。採取者は袋に石を詰めた。そして、綿を満杯に積載したと賄賂で嘘の登録をした空っぽの貨物列車が、共和国の中央に到着していた。//カザフ・ソビエト社会主義共和国
 ソ連の最高指導者レオニード・ブレジネフが死去し、ウズベキスタンの情報を長年集めていたユーリ・アンドロポフが政権に就いた時に、このシステムは崩壊した。//フィデル・カストロ(左側)とウズベキスタン共産党中央委員会のシャラフ・ラシドフ第一書記(中央)、1963年
 一説によれば、1983年、アンドロポフはラシドフ第1書記に電話をかけ、実際のところどれだけの綿が収穫されているのか、と聞いたという。この後、ラシドフ第1書記は、公式には心臓発作で死亡した。だが実際は、服毒自殺したと噂されている。//トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国、1977年
 この後、ソ連の中央部から捜査団がウズベク共和国入りした。その結果、このシステムに関わった者全員が懲役刑を宣告され、共和国の幹部は死刑を宣告された。//ウズベク・ソビエト社会主義共和国、1982年

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