モスクワ最初の空港はどうなったか(写真特集)

Pavel Adzhigildaev (CC BY-SA 3.0)
 都心から程近いこの場所は、ロシアの民間航空の発祥の地と考えられている。しかし今やその名残はほとんどない。

 モスクワ北西部にある「ホドィンスコエ・ポーレ」という土地は、エカテリーナ大帝時代以来大規模な行事が開催される場所としてモスクワ市民に知られている。19世紀末には全露産業芸術博覧会がここで開かれた。

ジーメンス・パビリオン、1882年

 1896年5月30日、ニコライ2世の戴冠式の際、皇帝からの贈り物をもらえると聞きつけた約50万人の市民がここへ詰めかけた。行事の運営がまずかったため悲惨な群集事故が起こり、1400人が死亡した。その後、「ホドィンカを引き起こす」という表現はあらゆる大混乱を指して用いられるようになった。この場所には軍の新しい兵舎が建てられた。

ホドィンカ群集事故の犠牲者の葬儀、1896年

 1910年には皇帝の庇護を受けてモスクワ軍管区の司令官が率いる初のロシア航空協会がモスクワで創設された。その後、その敷地の一部が飛行場になった。

正面口(1910年)

 最初の飛行場インフラが建てられたのは、航空愛好家らのおかげだった。アマチュアのパイロットらが自費で滑走路や航空機の格納庫を建設したのだ。飛行場はなお軍のパレードや民間の祭りに使われていたが、航空ショーも開かれるようになった。

モスクワ航空週間、1916年

 1917年の革命の後、ホドィンスコエ・ポーレはソ連航空機産業の揺籠となった。軍事利用やパイロットの育成・訓練の他、1920年代初めには民間航空輸送がここで始まった。1922年、ロシア初の国際便であるモスクワ発ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)・ベルリン行きの飛行機がここを飛び立った。

航空学校の最初期のパイロットら、1930年

 1923年、モスクワ―ニジニーノヴゴロド間の定期便が就航し、後の民間航空省の礎となるドブロリョート協会が設立された。初期の飛行機は4~8人しか輸送できなかったが、さまざまな都市への便が毎日ここから出ていた。今日では奇妙に思えるかもしれないが、初期のフライトでは乗客は機体の様子を観察してパイロットを補佐しなければならなかった。

ニジニーノヴゴロドに到着した飛行機、1924年

 1930年代初めまでにソ連では国際線と国内線の定期便が整備され、国境警備隊も創設された。1931年、ソ連初のエアターミナルがホドィンスコエ・ポーレ飛行場に建設された(地下鉄の緑の路線のアエロポルト駅近く)。乗客はこのターミナルでチェックインし、バスで飛行機のもとへ向かった。

ホドィンスコエ・ポーレ空港のANT-14飛行機、1934年

 しかし、1935年に別荘地ソコルの近くでANT-20が墜落した後、この空港から出る民間の便はなくなった。それ以来、この飛行場は公用機や試験機、軍用機の使用に限定された。

飛行中のANT-25

 第二次世界大戦後、モスクワに新たにヴヌコヴォ空港、ブィコヴォ空港、オスタフィエヴォ空港が建設されたが、都心からは遠く離れていた。だがいずれもホドィンカのターミナルを利用した。

エアターミナル内部

 ロシア初の空港は、イリューシン設計局やスホイ設計局の試験飛行場ともなった。

 一方、ソ連国防省はスイミングプールやスタジアム、エキシビション・ホールなど省付属のスポーツ施設をこの場所へ移転した。飛行場では航空機展示会も開かれた。

ホドィンカでの展示会

 最後の飛行機がここを飛び立ったのは2003年7月3日のことだった。飛行場にはなお多くの飛行機があり、市の当局はここを航空博物館にする計画だった。しかし、飛行機が修復を待つ間に(現在飛行機はヴァジム・ザドロジヌイ機械博物館に保存されている)、土地は市に移管された。こうしてここには結局スポーツ複合施設とモスクワ最大のショッピングモール、そしてCSKAと呼ばれるメトロの駅が建設されることになった。

新興住宅地の中にある古い飛行機、2008年

 2018年、滑走路のあった場所に新しくホドィンスコエ・ポーレ公園が誕生した。子供の遊び場に残された飛行機だけが、かつてここに本物の空港があったことを偲ばせる。滑走路は大きなスケーター用ゾーンと歩行者用の遊歩道になった。 

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