ソ連でクルマに乗せられた意外なもの7つ

歴史
エレオノラ・ゴリドマン
 樽の中で生活したい?輸送上の問題を解決するのにソ連は一体何をしたのだろうか?

1. 映画

 子どもはみんなアニメが好きである。ソ連時代には子どもたちは映画バスで映画を観ることが出来た。映画バスは1950年代にZIS155型バスを基に作られ、「スカースカ(おとぎ話)」、「マルートカ(赤ちゃん)」、「スヴェトリャチョーク(ほたる)」と名付けられた。座席数は最大28で、映写機とスクリーンが車内に設置された。窓には遮光カーテンがかけられていた。料金は無料かわずか数コペイカであった。お分かりのように、当時、テレビは大変貴重で贅沢品であったため、当然、子どもたちは列をなした。

 

2. クワス飲料

 夏になると、クワス(パンから作られたロシアの伝統的な炭酸飲料)はもっとも好まれた飲み物の1つであった。1960年代の後半には、クワスを1日中冷やしておくことができる、車輪のついた特別な樽がロシアの通りに登場した。大体は黄色に塗られていたこの樽には蛇口がついていた、直射日光を避けるためのテントも用意されていた。

 

3. 図書館

 ソ連では大抵のどの町にも図書館があった。しかし、へき地の村では、読み物を探すのはとても難しかった。移動図書館(「ビブリオバス」と呼ばれていた)は、戦前に登場したもので、いくつかの図書館が派遣したものだった。これらは、建設現場やコルホーズ(集団農場)を巡回した。

 

4. 野戦キッチン

 野戦キッチンは帝政ロシア軍の馬車の上に作られたのが始まり。ソ連時代に改良され、GAZ-AAトラック上に作られるようになった。平時には、僻地で働く人々のために暖かい食事が用意された。

 

5. 献血ステーション

 最初の移動式輸血ステーションは1942年に兵士のために登場した。戦後、ソ連では病院に血液を供給するために、移動式の献血ステーションが開発された。毎年特別チームが全国のあちこちに出かけ、人々が自発的に献血に訪れた。

6. 極地探検基地

 タンクの中の生活はとても快適とは言えない。ソ連時代、科学者たちは精力的に北極や南極を探検し、極寒での生活環境を克服しようとした。1975年にはトレーラーのように運搬できる円筒型の区画を開発した。これはこれまでのトレーラーよりも断然暖かかった。

 外がマイナス50度から60度の時に、中ではプラス16度以下になることはなかった。このタンクは強風にも耐えることが出来た。中では4人が生活することができ、キッチン、寝室とボイラー室もあった。暖房設備は床下に、換気設備は天井裏に設置されていた。しかし、タンクの長さはわずか10メートルしかなかった。

7. 学校 

 移動教室は学校のない地域に派遣された。例えば、DOSAAF(自動車運転教習所)はGAZ-51Aを基にした移動教室車を持っており、講義や実技講習を現地で行っていた。