自らロシアの玉座を捨てた人:正式に帝位を拒否したのは誰?

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 ロシアのすべての歴史を通じて、正式に玉座を捨てた人、退位した人、あるいは即位を拒んだ人は5人しかいない。その最初の人物は、即位も退位も2度ずつしているが、本心からそうしたのではなかった。

0. イワン雷帝(4世)

 イワン雷帝(1530~1584年)は、1565年に最初の退位に署名し、中央集権強化のため、オプリーチニナ(直轄領)の導入を宣言した。ロシア全土を直轄領とそれ以外の土地に分け、前者を自分の腹心らに統治させることに決めたのだった。

 しかし、誰も雷帝にかわって戴冠しなかったし、彼自身、実権を捨てなかった。それどころか、クレムリンではなくモスクワ郊外に居を定めた彼は、大貴族の反対派と戦うために、不人気で残酷な決定を下し始める。

 2度目の退位は、1575年9月に行われた。この時イワンは、チンギス・ハンの末裔シメオン・ベクブラトヴィチに譲位した。シメオンは、ロシアに服属していたカシモフ・ハン国のハンだった。戴冠したシメオンは、今やツァーリの馬車で移動し、王宮に住むようになった。イワンは「ただの大貴族(ボヤーリン)」であることに甘んじた。しかし、ツァーリのシメオンを描いた貨幣は発行されず、イワンが国庫の管理を続ける。

 なぜこんなことが行われたのか?歴史家たちの考えでは、最初の退位のときと理由は同じだ。つまり、イワン雷帝は、ツァーリとしての義務と責任から免れることで、処刑と改革のために「フリーハンドを得た」。1576年、イワンはモスクワの玉座に戻り、シメオン・ベクブラトヴィチは軍司令官に任ぜられ、大都市トヴェリを領有した。

 

1. ポーランド王ヴワディスワフ4世(15951648年)

 ヴワディスワフ4世(1595~1648年)は、ポーランド王ジグムント3世の長男で、彼がロシアの玉座への権利を得たのは全体としては偶然の成り行きだった。

 ロシア・ツァーリ国では17世紀初めに、「大動乱」(スムータ)が起きた。イワン雷帝の息子、フョードル1世が跡継ぎを残さずに死んだのがきっかけで、リューリク朝が一大危機に陥ったのである。1610年にはモスクワにポーランド・リトアニア共和国軍が迫り、占領されかねない状況だった。ロシアの新ポーランドの大貴族から成る政府「七人貴族政府」は、ツァーリのワシリー・シュイスキーを強制的に退位させ、ポーランドの皇太子ヴワディスワフ推戴することを申し出た。これにより、何とかロシア・ツァーリ国の独立を保とうとしたのだった。

 しかし、ヴワディスワフの父、ジグムント3世は、ロシア人がカトリックに改宗すべきことを主張した。ロシアの大貴族は、改宗を国民に提案することなど思いもよらなかった。その結果は恐るべきものとなっただろうから。1610年8月、大貴族らは極秘にヴワディスワフをツァーリに「選出した」。もっとも 、ヴワディスワフはロシアを実際に統治したことはない。

 1616年のこと、この時までにポーランド軍は既にロシアから駆逐されていたが、ヴワディスワフはモスクワを再度占領しようと企てたものの、敗北を喫した。その後も、彼は引き続きロシアのツァーリの称号と王冠を保持していたが、ポラノヴォ条約によりこれらを放棄した。この条約は、1632年にぶり返していたロシアとポーランド間の戦争に終止符を打つものだった。

 

2. 皇帝ピョートル3世(1728~1762年)

 ピョートル・フョードロヴィチは、ドイツ名はカール・ペーター・ウルリヒ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルフ。ピョートル大帝の娘アンナと、ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒとの間に生まれた。

 ピョートル自身は、ロシアの君主になりたいとはさらさら思っていなかった。彼は、自分が王位継承権をもつスウェーデンの王位を欲していたのである。しかし、ピョートル大帝の娘アンナの息子である彼は(アンナは出産直後に亡くなった)、婚姻に際してピョートル大帝のもとで結ばれた契約によると、ロシアの王位継承権をも有していた

 当時ロシアでは、大帝のもう一人の娘、エリザヴェータ・ペトローヴナ(1709~1762年)が女帝として統治していた。彼女にとっては、自分の甥が帝位に就くのが有利だった。なぜなら、それによりピョートルの兄イワン5世の系統ではなく、ピョートルの系統が帝位に戻ることになるからだ(エリザヴェータの前は、彼女の従姉〈イワン5世の娘〉、アンナ・ヨアーノヴナが女帝であった)。

 こうして、1742年にピョートルがロシアにやって来ることになった。1745年に彼は 、父方の又従妹ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ・フォン・アンハルト=ツェルプストと結婚する。彼女が将来のエカテリーナ2世だ。

 女帝エリザヴェータが死ぬと、ピョートルがロシア皇帝に即位した。しかし、33歳の皇帝は、大人の生活に適応できず、幼児的でむら気だった。おまけにアルコール依存症で、兵隊人形遊びを止めなかったという。これで彼の運命は定まった。

 ピョートルの治世は半年ちょっとで、その後、妻エカテリーナが組織したクーデターで退位に追い込まれた。そして彼は、退位の公式文書に署名し、妻に屈辱的な手紙を書き、ヨーロッパに行かせてほしいと懇願した。

 しかし、これは役に立たなかった。退位の数日後、ピョートルは、帝都郊外のロプシャの宮殿でクーデターの共謀者によって殺されたとの説が有力だが、死の状況はいまだに不明だ。

 

3. コンスタンチン・パーヴロヴィチ大公(17791831年)

 コンスタンチンは、皇帝パーヴェル1世(1754~1801年)の次男である。ロシアのツァーリとして宣言されたが、戴冠せず、統治もしなかった。また、皇帝と宣せられていた間、ポーランドにいた。

 パーヴェル1世によって導入された帝位継承法によれば、コンスタンチンは、長兄アレクサンドル(1777~1825年)が男子を残さずに死亡した場合、即位しなければならなかった。そして、アレクサンドルは生涯、男児が生まれなかった。娘が二人いたが、夭折している。

 だから、1825年にアレクサンドルが死去すると、コンスタンチンが即位すべきだった。ところが、コンスタンチンは既に1823年に、国家統治の任に堪えずとして、 即位を拒否していた。

 しかも、1820年にコンスタンチンは、最初の妻アンナ・フョードロヴナと離婚した。彼女は、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツの娘で、ドイツ語名はユリアーネ・ヘンリエッテ・ウルリケ。

 離婚したコンスタンチンは、ポーランド貴族の女性、ヨアンナ・グルジンスカ伯爵夫人と再婚した。ヨアンナは王家の血筋ではなかったから、貴賤結婚である。そのため、二人に子供が生まれても、その子に帝位継承権はなかった。が、それは、コンスタンチンの継承権を奪うものではなかった。

 にもかかわらず、皇太子コンスタンチンは、ヨアンナとワルシャワに住み(彼はポーランド駐留のロシア軍の司令官だった)、この再婚のことも、即位を拒否する理由に挙げていた。

 アレクサンドルの命令により、コンスタンチンの即位拒否は秘密に保たれていた。なぜか、ニコライ・パーヴロヴィチ大公(1796~1855年)でさえ、このことを知らなかった。ニコライは、パーヴェルの三男で、将来の皇帝ニコライ1世だ。数人の高官がアレクサンドルから即位拒否の秘密を知らされていたが、宮殿の陰謀の結果、その発表が遅れた。

 そのため、11月27日、サンクトペテルブルクで、皇帝アレクサンドル1世死去の報が伝えられると、軍隊、近衛軍、官吏は、コンスタンチンに忠誠を誓い始めた。コンスタンチンの肖像を刻んだ貨幣も造られた。この「コンスタンチンのルーブル」は、今では古銭市場でユニークなコインとして大いに珍重される。

 ニコライもまた、コンスタンチンに宣誓し、ワルシャワの兄に対し、サンクトペテルブルクに来て帝位に就くよう求める手紙を送った。コンスタンチンは、自分は帝位を放棄する、サンクトペテルブルクへは行かないと答えた。

 この知らせを受け取ったニコライは、いささかためらいながらも帝位に就いた。この空白と混乱に乗じ、ロシア貴族の一部が反乱を起こした。これは、「デカブリストの乱」(1825年12月14日)として知られるもので、新帝ニコライによって鎮圧された。

 コンスタンチンは、即位を拒否し、戴冠もしなかったが、形の上では約3週間ロシア皇帝だった。しかし、帝位継承に関する布告では、ニコライ・パーヴロヴィチが、1825年11月19日のアレクサンドル逝去の日から皇帝とされている。したがって、コンスタンチンは、ロシア皇帝としては言及されない。彼は、これら一連の出来事の6年後の1831年に、コレラで急死した。

 

4. 皇帝ニコライ2世(18681918年)

 第一次世界大戦中の1917年、ロシアで革命が起き、激しさを増していった。サンクトペテルブルクでは、労働者の蜂起が始まり、都市を占領し、ついに皇帝の専制を打倒した。ドゥーマ(国会)は解散し、閣僚会議(内閣)はその力を失った。そのときまで前線にいた皇帝ニコライ2世は、サンクトペテルブルク近郊の離宮ツァールスコエ・セローに行こうとしたが、反政府勢力が鉄道を封鎖した。そのため、皇帝はプスコフに向かった。

 ニコライはお召し列車で、役人と軍人の現状報告を聞いた。北部戦線司令官のニコライ・ルズスキー将軍から直接、心理的圧力を加えられてニコライは、ロシアに臨時政府を樹立することに同意し、これに関する布告を指示した。

 翌日、多数の高官と陸軍司令官が、革命の席巻する国を落ち着かせるために、皇帝に退位を説得し始めた。1917年3月2日、ニコライ2世は、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に譲位した。パーヴェル1世が定めた帝位継承法によれば、本来、皇太子アレクセイが即位すべきであったが。

 

5. ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公(18781918年)

 ニコライ2世の退位に立ち会った政治家アレクサンドル・グチコフとワシリー・シュリギンが、1917年3月3日夜、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)に到着した。すると、鉄道駅で彼らに会った革命派の労働者たちは、ニコライが「帝位そのもの」を放棄したのではなく、弟に譲ったにすぎないと知り、激怒した。労働者たちは共和国を要求し、グチコフとシュリギンをあやうく殺すところだった。

 3月3日朝、ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公はアパートで、臨時政府首班その他の主だった政治家、軍人と会談した。誰もが大公に帝位を継承しないように説得し、大公はこれに同意した。そして、帝位継承を拒否するとの文書に署名した。

 この文書によると、ロシアの政体に関する問題は、制憲議会が決定すべきだった。ちなみに、臨時政府は数ヵ月後に命令を出し、皇族は誰もこの制憲議会の議員となる権利を持つべきでないとした。この法律により、ミハイル・アレクサンドロヴィチの帝位継承拒否とともに、ロマノフ家はロシアの帝位への権利を失った。

 1917年3月4日、ニコライ2世の退位および、ミハイル・アレクサンドロヴィチの帝位継承拒否に関する布告が同時に出された。ロシアの権力は臨時政府に移った。