「大動乱」の時代 なぜポーランドはロシアを領有し損ねたか

Vladimir Khotinenko/TRITE/2007
 17世紀初め、ポーランドには絶好のチャンスが何度かあった。その主なライバル国をほとんど犠牲を払わずに版図に収め、東ヨーロッパ唯一の覇権国家となる寸前までいったのだが…。

 何世紀にもわたり東欧は、二つのスラヴ民族、ロシア人とポーランド人の闘争、戦争の舞台となってきた。この闘争ではロシアが勝利を収めることが多く、国家としてのポーランドが地上から姿を消したことさえあった。

 だが、ポーランドにも、東方の強大な隣国を倒す機会はあった。17世紀初め、ロシアが「大動乱(スムータ)」として知られる政争の時代に突入したとき、ポーランド・リトアニア共和国の軍隊は、モスクワのクレムリンを占領し、ポーランド王子がロシアのツァーリに選出された。

大動乱(スムータ)

 16世紀末にロシアで、7世紀以上にわたって国を治めてきたリューリク朝が断絶した。

 イワン雷帝(4世)の末子、ドミトリー皇子は、1591年に奇怪な状況で非業の死を遂げ(暗殺説と事故死説がある)1598年には、実子のないフョードル1世が死去したことで、ロシアは、際限のないカオスにはまり込んだ。大貴族たちの権力争い、支配者の目まぐるしい交代、様々な僭称者と玉座を狙う者たちの出現…。

S.V. イワノフ作『動乱時代』(1908年)

 西方におけるロシアの主たるライバル、ポーランド・リトアニア共和国は、これら一連の事件を注視し、侵攻の好機を虎視眈々と狙っていた。

 なお、ポーランド・リトアニア共和国は、1569年に成立している。リトアニアは、ロシアとリヴォニア戦争を戦って苦境に陥り、ポーランドと合同した(ルブリン合同)。

最初の試み

 ポーランドが最初に侵攻を試みたのは1604年。この時、ポーランド・リトアニア共和国軍がロシア国境内に侵入した。軍を率いたのは、いわゆる偽ドミトリー1死んだはずのドミトリー皇子が実は奇跡的に生き延びていたという触れ込みだった。しかしその正体については、逃亡した修道士グレゴリー・オトレピエフとするものはじめ、多数ある

 ロシアの玉座に自分の意のままになるツァーリをつけるというアイデアは、ポーランド人にとって非常に魅力的だった。ポーランド国王ジグムント3世とセイム(全国議会)は、公式には距離を置きつつも、マグナート(有力貴族)、イェジ・ムニシェフとコンスタンチン・ヴィシネヴェツキに、密かにカルテブランシェ(完全な自由裁量)を与えた。こうして彼らは、ロシア遠征を組織する。

「偽ドミトリー1世とポーランド国王ジグムント3世」(ニコライ・ネヴレヴ作、1874年)

 冒険は十分成功した。ロシアのツァーリ、ボリス・ゴドゥノフは急死し、偽ドミトリー1世は、空位となったロシアの帝位に就く。

 ところが、ポーランドの期待を裏切り、僭称者は、彼らの操り人形にはならなかった。偽ドミトリー1は、遠征前夜にした約束を一つも果たさなかった。彼は、ロシア西部の一部を割譲し、ロシアでカトリック教会の建設を開始し、イエズス会の進出に道を開くことを約していたのだが。

 その一方で、偽ドミトリー1世は、ロシアの大貴族にとっても不都合だった。彼ら自身が権力を握りたかったからだ。1606527日、僭称者は殺された。ポーランドのロシア中枢を 目指す戦いは、中休みとなった。

Konstantin Makovsky、「偽ドミトリー1世の殺害」

第二の試み

 1609年、ポーランド国王ジグムント3世のもとにこんな風聞が達した。モスクワの大貴族の一部が、選ばれたツァーリ、ワシリイ・シュイスキーの政治に不満で、ジグムント3世の息子、ヴワディスワフを擁立することにやぶさかでないと。

 実際、ロシアの大貴族らは内訌に疲れ果て、外部からツァーリの候補者を招くほうに傾きつつあった。つまり、ロシアの大貴族の中から選ぶのではなく、ポーランド国王の息子を推戴するのが最適だと考えるようになった。

ピーテル・パウル・ルーベンス、「ポーランド国王ジグムント3世(ca. 1624)」

 やがて、ツァーリのワシリイ・シュイスキー自身が、ジグムント3世に侵入の口実を与えてしまう。またも出現した僭称者、偽ドミトリー2世に敗れたシュイスキーは、ポーランド・リトアニア共和国の敵、スウェーデンに軍事援助を求める。これは、ポーランドとロシアの間の合意に著しく違反するものだった。ポーランド王国軍は直ちにロシア国境内に侵攻した。

 モスクワ西方の要衝、スモレンスクをポーランド王が包囲すると、その陣営に、ロシアの大貴族の代表団がやって来た。そして、ポーランド王の息子をロシアのツァーリに擁立することを提案した。擁立の条件は、「ポーランド王が不可侵のギリシャ正教の信仰を保持し、モスクワ公国の人々が有する古来の権利と自由に手をつけず、さらに、モスクワ公国にかつてなかった権利と自由を加えること」

 161074日、ヘトマンのスタニスワフ・ジュウキェフスキ率いるポーランド軍は、ロシア=スウェーデン連合軍を「クルシノの戦い」で撃破し、ツァーリのワシリイ・シュイスキーを退位に追い込んだ。そのちょうど2か月後、「ツァーリにしてジグムントの息子」、すなわちジグムント3世の息子、ヴワディスワフに対し、ロシア人が宣誓式を行った。

 しかし、ヴワディスワフは宣誓式には出席しなかったので、ヘトマンのスタニスワフ・ジュウキェフスキが宣誓を受けた。追って、宣誓の文書は、ロシアの他の都市にも送られた。しかし、しばらくしてヘトマンはポーランド王にこんな手紙を書いている。

 「人々の心中に何が潜んでいるかは神のみぞ知るであります。しかしおよそ見て取れる限りでは、モスクワの人々は、ポーランド王子が統治されることを衷心から望んでいるようでございます」

スタニスワフ・ジュウキェフスキ

ツァーリ無きツァーリ国:空位時代

 だが、ヴワディスワフの推戴は、ポーランド・リトアニア共和国へのロシアの統合を直ちに意味するものではなかった。それどころか、ポーランド・ロシア間の合意によれば、ロシアの慣習や権利に介入して、当地にカトリック教会を建立することも、シュラフタ(ポーランド貴族)の支配を打ち立てることもできなかった。

 だから、ポーランドとロシアは単一国家にはならなかったが、「永遠の平和」に関する条約は結んだ。そして両国は、敵には共同で当たり、自由貿易を行う義務を負った。

 とはいえ、こんな条件は、ポーランドが将来、ロシアの統治システムに深く根を下ろそうと企てる妨げにはほとんどならなかった。なにしろポーランドには、巨大なリトアニア大公国を併呑した成功体験があったのだから。

ヴワディスワフ

 ポーランドは、1569年のルブリン合同で、二つの国家を合同させ、しかも平和裏に、つまり広範に分布していた正教徒をほとんど迫害することもなく、自らの手に全権を握り、リトアニア人を副次的な立場に追いやった。

 だが、ロシア人も同じように扱えるかどうかは確かめようがなかった。そこで、ジグムント3世は、ヴワディスワフが未成年であることを理由に、この14歳の息子をモスクワに遣ろうとはしなかった。ジグムントは、自ら各種の命令、指令に署名し始め、事実上、権力を手中にしたが、これは当然、ロシアの大貴族の不満を呼び起こした。

 またポーランド王は、息子の正教への改宗の件については、こう断言して、ロシアの大貴族を憤慨させた。すなわち、息子の改宗は、1439年のフィレンツェ公会議に基づき正教会とカトリック教会が合同し、正教会がローマ教皇による支配を認めた暁にのみ可能となる、と。

 「最後の一滴」となったのは、合意に反してポーランド・リトアニア共和国軍がモスクワに入城し、クレムリンを占領したことだ。今やモスクワ公国の政府は、ヘトマンのジュウキェフスキと相談せずには、ロシアの統治に関しては何も決められないようになった。

ポーランド・リトアニアのモスクワ占領

 ポーランド・リトアニアの将兵はたちまちモスクワっ子の憤懣を買うことになった。例えば、ポーランド貴族のブリンスキなる男は、酔っ払ってスレテンスキエ門の聖母のイコンを銃で撃ち、著しく損なった。クレムリンのポーランド人守備隊の司令官、アレクサンデル・コルヴィン・ゴシェフスキは、すぐさま決断し、犯罪者の両手を切り落とし、聖母のイコンに下に釘付けにしたうえ、ブリンスキは広場で生きたまま火炙りにした。

アレクサンデル・コルヴィン・ゴシェフスキ

 だが、対立は激しくなる一方で、もはやとどめようがなかった。161141日、 モスクワ住民とポーランド・リトアニア軍の衝突は大規模な流血に発展し、もはやゴシェフスキも介入できなかった。

 ドイツ人の傭兵、コンラッド・ブッソフは当時、モスクワの守備隊に勤務していたが、ポーランド・リトアニアの将兵による凄まじい略奪を回想している。

 「(彼らは)ベルベット、絹、金襴、金、銀、宝石、真珠などを分捕った。教会では、聖人から金メッキされた銀製の衣、首飾り、襟をはぎ取った。それらは、宝石と真珠で豪華に飾られていた…。血まみれの汚れた服を着ていた者が、高価な衣装をまとってクレムリンに帰って来た…。途方もない乱痴気騒ぎ、淫行、冒涜的な暮らしが始まり、絞首台をもってしても彼らを止めることはできなかった」

解放

 ヴワディスワフがツァーリになる期待は完全に消え、ポーランド軍による占領は、モスクワだけでなく、他の都市でも耐え難い重荷になっていった。こうしてロシア社会には、第一次、第二次の国民義勇軍として知られる解放運動が生まれた。

ニジニ・ノヴゴロドの人々に、ポーランド人に対する義勇軍の決起を訴えるミーニン(コンスタンチン・マコフスキー作、1896年)。

 1611年春には、モスクワの一部が解放され、ポーランド・リトアニア軍はクレムリンに立てこもり、包囲された。

 ちなみに、「七人貴族政府」の面々も、また将来のロマノフ朝初代ツァーリ、ミハイル・ロマノフも、このときモスクワにいた(「七人貴族政府」とは、7人の貴族からなる政権。彼らは、ワシリー・シュイスキーを退位させ、1610年に権力を握った)。

 ポーランド・リトアニア軍の絶望と飢餓は限界に達した。町人ボジョク・バルイクはその惨状をこう伝えている。

 「包囲された者たちは、馬、犬、猫、鼠を食い尽くし、ベルトを齧った。地中から腐った死体を掘り出し、貪った。こんな類の『食物』のせいで、死亡率が増加した。生ける者が生ける者に襲いかかり、互いを切り裂き、貪り出した」

 クレムリン守備隊の希望は、救援に向かったヘトマン、ヤン・ホドケヴィチが、16128月にモスクワ近郊で敗れたため、潰えた。1120日、守備隊は勝利者の慈悲を乞い、降伏した。

Ernst Lissner

最後の試み

 1613721日に、ミハイル・ロマノフがツァーリに選出されたが、これにより、ロシアには事実上、正式に選ばれたツァーリが二人いる事態となった。双方の長期にわたる交渉、議論は何の結果ももたらさなかった。そこで、神聖ローマ皇帝の駐ロシア大使エラズム・ガンデリウスに仲介を頼んだが、彼はこう答えた。

 「一国に二人の王がいる。その関係はまるで火と水だ。水と火を和解させようがあるだろうか?」

 1616年末に、既に成人していたヴワディスワフは、「王位簒奪者ロマノフ」を打倒してロシアの王位を取り戻そうという最後の試みに出た。ポーランド・リトアニア軍が再びクレムリンの城壁に迫ったが、しかし、占領はできなかった。ロシアの民衆もまた、彼をもはやツァーリではなく、外国の侵略者と認識した。

アンドレイ・リャブシキン「貴族会議に出席したツァーリ・ミハイル」(1893)

 ヴワディスワフが正式にロシアの王座を断念したのはようやく1634年のこと。このとき彼はもうポーランド・リトアニア共和国のヴワディスワフ4世(ちなみに、彼も彼の父もヴァーサ家の出身)となっていた。

 こうして、ポーランドは東方のライバルを破るチャンスをものにできなかった。ロシアはというと、急速に国力をつけ、2世紀後には、国家としてのポーランドに終止符を打つ機会を逃さなかった。

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