リチャード・ニクソンがソ連で少年時代を過ごしたとのウワサは本当か?

リチャード・ニクソン副大統領(1913-1994)は訪ソ中、モスクワ住民に会釈を返す、1959年5月22日-30日

リチャード・ニクソン副大統領(1913-1994)は訪ソ中、モスクワ住民に会釈を返す、1959年5月22日-30日

Sputnik
 第37代アメリカ大統領のリチャード・ニクソンが少年時代をウラルで過ごしたという噂がある。もちろん、1959年に 副大統領としてソ連を公式訪問するはるか前のことだ。

 第37代米大統領リチャード・ニクソンは、副大統領時代の1959年にソ連を訪れている。小さな鉱山町デグチャルスク(スヴェルドロフスク州に位置し、現在の人口は1万6千人以下)には、今でもニクソンの訪問を覚えている者がいる。しかし、この公式訪問に何らかの形でつながった別の、それよりはるか前の――そして秘密の――旅は、果たして本当にあったのだろうか?

ソ連への旅

『ニクソン:一つの生涯』の作者ジョナサン・エイトケンによれば、 副大統領時代のニクソンの1959年における訪ソは、彼の戦略的思考に最大の影響を与えた外遊だという。

 公式には、この訪ソの目的は、「モスクワで史上初めて開催される『アメリカ産業博覧会』で米国代表を務めること」だった。

「実務的な問題に関するかぎり、このミッションへの期待度は低かった」けれども、ニクソン自身はそうは考えず、半年もかけて旅行の準備をし、ロシア語のレッスンを受け、専門家たちに会い、関連文献を研究した。

ソ連指導者ニキータ・フルショフ(左)とリチャード・ニクソン米副大統領はモスクワの開催された『アメリカ産業博覧会』を出席している。有名な「台所論争」のシーン。1959年

 別の伝記『リチャード・ニクソン:その生涯』の著者ジョン・A・ファレルはこう述べる

 ニクソンは、132ものトピックについて説明を受けたが、それでも、この将来の大統領は、「世界中のすべてのブリーフィングを聞いても、フルシチョフの思いがけぬ予測不能な言動に備えることは無理だったろう」とこぼした、と。

 例えば、最初の会談で、このソ連の指導者は、米国議会の東ヨーロッパ解放に関する決議を「馬糞」になぞらえた。

「人は、トイレで飯を食うべきじゃない」。フルシチョフは言った。「悪臭ふんぷんたる決議だ!新しい馬糞みたいに臭い。こんなひどい悪臭は他にない!」

 これにニクソンはどう答えようがあったか? 彼は間髪を入れず、豚の糞はもっと臭い、とやり返した

 モスクワに着いたニクソンは、「アメリカ産業博覧会」でフルシチョフと有名な「台所論争」を繰り広げた後、レニングラード(現サンクトペテルブルク)、シベリアのノヴォシビルスク、そしてスヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)とデグチャルスクの工業地帯を訪れた。

 ニクソンはパトリシア夫人とミルトン・アイゼンハワー(第34代米大統領アイゼンハワーの弟)を伴って、「ウラルマッシュ機械製作工場」、「ペルヴォウラリスク新鋼管工場」、ヨーロッパとアジアの境界、デグチャルスク銅山を訪ねた。

デグチャルスクで少年時代を過ごす?

 伝えられるところでは、ニクソンのこのときの旅程では、デグチャルスク訪問は予期せぬものだったという。ここから伝説が始まる。この町の訪問を副大統領自らが希望した、と推測する者がいた。これにさらに尾ひれがつき、ニクソンは、地元の少年たちとサッカーをしながら、ここで過ごした少年時代について語ったという。そのときニクソンは、近くの山の名前「ラバズ・カメニ」まで思い出したとか。

 米国のメディアには、これに関する情報はないが、エカテリンブルクの公式ポータルサイトを含むロシアのソースは、こう主張している。1925~1930年に、ニクソンの両親は、地元の鉱山を近代化した「レナ金鉱」社に勤めており、当時12歳の幼いニクソンも両親とともに同地にいたようであると

リチャード・ニクソン米副大統領とソ連指導者ニキータ・フルショフがボートでモスクワ川を観覧している。右側に立っている人はミルトン・アイゼンハワー。1959年7月24日

 地元の年配者のなかには、リチャードという赤毛の少年を覚えているよ、両親は炭鉱で働いていたなあ、などと言う者さえいた。しかし、この伝説の証拠は存在しない。米国の大統領図書館も、そうした類の情報はすべて否定している

 しかし、これが神話であろうとなかろうと、その後のニクソンの副大統領としての旅は、次の事実を残した。すなわち彼がこの訪問中に、ソビエト市民とオープンに交流した最初の西側政治家になったということだ。1959年8月1日、彼はソ連のラジオとテレビに出演し、米ソ両国間の協力を拡大するよう呼びかけた。

 「貴国を去っても私は、美しいウラル山脈をドライブしていたときに起こった出来事を決して忘れない」と彼は演説中に言った

 「道路脇にいた子供たちのグループが私の車に野花を投げ入れ、英語で『友情』、『友情』と叫んだ。ジューコフ氏(ユーリー・ジューコフ。対外文化交流国家委員会議長)は、私に言った。英語を学ぶ子供たちに最初に教える言葉は『友情』であると。ソビエト市民の気持ちをこれ以上雄弁に表現することはできなかったろう。我々もまたその気持ちを皆さんと共有する」。

ソ連指導者レオニード・ブレジネフ(左)とリチャード・ニクシン米大統領が交渉の休暇に話し合っている。ニクソンの訪ソ中。ヤルタ、黒海の海岸。1974年

 その後の米ソ関係の展開に向けての、この旅の影響はいくら評価してもしすぎることはないだろう。1972年5月22日、ニクソンはモスクワを訪問した米国初の大統領となった。この訪ソは、ソ連の指導者レオニード・ブレジネフとの首脳会談のためだった。このサミットは、冷戦の敵同士のデタント(緊張緩和)に向けての最初のステップと考えられている。

 ニクソンが少年時代のソ連滞在のような出来事を隠したのかどうか、我々にはよく分からない。しかし、もしそれが本当なら、この米大統領のソ連への態度をかなり説明してくれるのではないだろうか。

注記:

 エカテリンブルクのポータルサイトは、この件に関するロシア・ビヨンドの照会に答えなかった。また、デグチャルスク市の行政にも連絡を取ったが、市当局は、「神話」を裏付ける情報はないと述べた。

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