1980年代、ソ連とアメリカの関係は危機的と言われるほど冷え切っていた。軍拡競争はピークに達し、2つの超大国はヨーロッパに数百もの核兵器を配備し、アメリカのロナルド・レーガン元大統領ははっきりとソ連を「悪の帝国」と呼んだ。大規模な戦争がまもなく始まるのではないかと思われた時代であった。
11才のカーチャ・ルィチョワ。ニューヨーク、米国。
TASSソ連とアメリカの関係を和らげるのを助けた人物の一人がアメリカの10歳の少女サマンサ・スミスであった。彼女は心を込めて、ユーリー・アンドロポフ書記長に「あなたは戦争に賛成ですか?反対ですか?」と問う手紙を書いたが、その手紙は世界中に大きな感銘を与えた。アンドロポフ書記長はサマンサに個人的な返信を送り、その中で、ソ連では誰も戦争をしたいと思っていないと伝えた上で、彼女をソ連に招待した。彼女はこれを了承し、両親とともにソ連を訪れた。そしてこの様子を世界中が見守った。そしてサマンサはソ連には善良で平和な人々が暮らしているということを知り、多くの新たな友人を作った。彼女の子どもながらの理想主義は全地球にとってのより良い未来への希望のシンボルとなった。
残念ながら、ソ連旅行から2年後の1985年、サマンサは航空機墜落事故でこの世を去った。しかしそれからまもなく、もう一人の親善大使となったソ連の少女、カーチャ・ルィチョワが広く知られるようになった。サマンサほどではなかったが、彼女も多くの人々に愛された。
カーチャ・ルィチョワ(左)と彼女の新しいアメリカ人の友達、スター・ロウ。
TASSカーチャが初めてアメリカに派遣された1986年のこと。「カーチャはアンドレイ・グロムィコ外務大臣の親戚で、英語を話すこともできないという噂が流れたんです。それから数年にわたり、カーチャは多くの誹謗中傷を受けました。わたしはまったく不当なことだったと思っています」と1980年代にジャーナリストとして活躍したリュボーフィ・ミハイロワさんは語っている。
実際のところ、カーチャのアメリカ訪問はソ連側の提案ではなく、アメリカ側の考えで実現したものであった。サマンサ・スミスが父親とともに事故死した後、母親のジェーンと彼女が設立した団体「平和を作る子どもたち」は、サマンサの使命を引き継ごうと、ソ連の少女のアメリカ訪問を組織するようソ連に提案した。
ソ連ではオーディションが行われ、6,000人の少女がこれに応募した。その中から選ばれたのがカーチャ・ルィチョワである。カーチャには共産党の親戚がいたわけではないことが今でははっきりしている。両親は研究者で、彼女はモスクワの英語を専門に学ぶ学校に通っていた。しかも彼女は3つの映画に出演するなど、演技の経験もあった。また外見も重要であった。カーチャは金髪のふわふわカールにブルーの瞳で、それはアメリカ人に気に入られるはずだと考えられた。
カーチャ・ルィチョワとブロードウェイ劇場の俳優たち。
モルトン・ビビ撮影/Sputnikカーチャ・ルィチョワのアメリカ訪問中、ソ連のマスコミは彼女の日記を公開した。のちにこの日記が集められ、「カーチャ・ルィチョワのお話」として出版された。その日記には、レーガン大統領との会見の日のことが次のように綴られている。
「5分後にレーガン氏が現れ、手を差し出してこう言った。このホワイトハウスでわたしに会えてとても嬉しいと。わたしは大統領におもちゃを手渡し、ソ連の全市民と同じく、平和を望むソ連の子どもたちが作りましたと説明した。レーガン氏は、わたしは子どもではないけれど、同じように平和を望んでいると答え、地球上に核兵器が残らないようにするためにあらゆることをすると約束してくれた。
それから母とわたしにアメリカ滞在を楽しんでくださいと述べ、前の日に夜にわたしたちがサーカスに行ったことを知って、それは羨ましい、わたしはサーカスに行く時間がないのですと言った」。
マクドナルドでのカーチャ・ルィチョワ。
TASSカーチャがマクドナルドに連れて行かれたとき、ジャーナリストたちの盛り上がりはそれまでにないほどの最高潮に達した。ソ連の少女がアメリカで、ビッグマックとフライドポテトを食べるということは、レーガン大統領との会見にも劣らないほどのセンセーションを巻き起こした。
「その日、わたしはマクドナルドで昼食をとった。マクドナルドというのが、有名な会社で小さなレストランをたくさん経営しているということは聞いていた。入り口では大きな赤毛の髪をウィッグをつけた笑顔のピエロがわたしたちを出迎えてくれた。一瞬サーカスに来たのかと思った。けれど、すべてがとてもおいしかった。わたしたちのもとに、「ビッグマック」という名前のおいしそうなサンドイッチとフライドポテトが運ばれてきた。サンドイッチを味わいたかったけれど、わたしがそれを口元に運ぶたびにすごいカメラのシャッター音がし、フラッシュの光が瞬いて、おいしく食べることなど不可能だった」。
ソ連では「マクドナルド」がどういうものなのか想像することができる人はいなかった。このファストフードの帝国がソ連で第一号店を開店したのは、カーチャ・ルィチョワのアメリカ訪問の4年後のことであった。マクドナルドが開店してからの数ヶ月は、一種の巡礼地となり、店の前には終わりのない長蛇の列がいつもできていた。
カーチャ・ルィチョワと彼女のアメリカ人の友達、スター・ロウがモスクワで散歩している。
イーゴリ・ミハレフ撮影/Sputnikカーチャ・ルィチョワがアメリカ旅行で得た印象の中には悪いものもあった。何より彼女がショックだったのは、映画「ロッキー4」だったという。主役のシルヴェスター・スタローンがリングで非人間的なソ連のボクサー(ドルフ・ラングレンが演じた)と対峙するの作品である。カーチャは日記にこう綴っている。「映画で彼がリングの上でアメリカの黒人ボクサーを殺してしまったとき、わたしは寝室に走っていき、ベッドに身を投げて、泣いた。この映画は嘘ばかりで、わたしたちの国が残酷に描かれていることがとても悲しかった」。
翌日のテレビインタビューで彼女はこう語っている。「アメリカのテレビで放映されているロッキー4を観ましたが、ソ連についての真実は一つもありませんでした。ソ連の人々にあのような顔の人はいません。この映画を作った大人に対して、恥ずかしい気持ちでいっぱいです」。
彼女の言葉はアメリカのメディアで大きく取り上げられた。シカゴ・トリビューンのキャロル・バセット氏は「この映画で不快なのは、登場人物の間の争いではなく、絶えず、無作法な形で、観客に対し、ロシアの人々とその国家を軽蔑し、憐れみ、品位を落とそうとしている点である」と書き、カーチャの言い分は正しいと認めている。
当時のレーニン名所モスクワ中央スタジアムで開かれたグッドウィルゲームズのオープニング・セレモニーの参加者。サマンサ・スミスの母、ジェーン・スミス(左から二人目)とカーチャ・ルィチョワ(右から二人目)。
ユーリー・アブラモチキン撮影/Sputnik帰国後しばらくカーチャはソ連で注目の的となった。ソ連国民の誰もがアメリカがどういう国だったか、アメリカ人が何を食べ、何を着て、何を読んでいるのか知りたがった。カーチャはソ連の社会イベントに参加し、彼女には袋いっぱいの手紙が届き、彼女に関するアネクドート(小噺)が作られたが、カーチャは忙しすぎて、同級生たちと遊ぶ時間などないほどであった。
おそらくそれでカーチャとカーチャ一家はメディアからの注目を浴びたくないと思ったのだろう。それからまもなくカーチャ・ルィチョワはソ連の報道から姿を消した。カーチャと母親はフランスに移住し、彼女はソルボンヌ大学で経済学と法学を学んだ。その後、長い間、フランスで仕事をしていたが、2000年にロシアに帰国している。現在、エカチェリーナはメディアからの取材に一切応じていない。それは、50代になった今になっても十分だと思えるほどの注目を子ども時代に浴びたからだろう。
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