第二次大戦後スターリンと衝突したソ連で最も偉大な軍司令官ゲオルギー・ジューコフ

ソ連邦元帥ゲオルギー・ジューコフ

Sputnik
 ゲオルギー・ジューコフは、ナチスを撃退してベルリンを占領したが、この偉大な元帥も、大戦後の共産党指導部内の権力闘争で憂き目に遭った。

 第二次世界大戦中最も卓越していたソ連軍元帥のゲオルギー・ジューコフが公職から引退して15年を経た1974年に死去した時、亡命詩人のヨシフ・ブロツキーは『ジューコフの死に寄せて』という詩を書いた。ブロツキーは詩の中で彼のことを「歩兵の隊列を成して外国の首都へと勇敢に踏み込んだが、自国の首都へは怯えながら帰った」者の一人と呼んでいる

1945年12 月7日。バーナード・モントゴメリー陸軍元帥がロシアの元帥たちに勲章を授ける、ブランデンブルク門で行われたセレモニーの後。ゲオルギー・ジューコフ元帥、バーナード・モントゴメリー元帥、コンスタンチン・ロコソフスキー元帥、ワシーリー・ソコロフスキー元帥。

 おそらくこの場合の「怯え」という語は詩的許容だろう。1939年のハルハ河戦争で日本軍を破り、独ソ戦においても最も首尾よく戦った軍司令官の一人だったジューコフが、何かに怯えていたとは考えにくい。

 とはいえブロツキーは核心を突いている。というのも、戦後ヨシフ・スターリンはジューコフを、いかなる敵も思いも寄らなかったようなやり方で裏切ったからだ。

ライバルを撃ち落とす

モスクワ、1945年。ソ連邦元帥ジューコフとヨシフ・スターリン。

 1946年まで、ジューコフはドイツのソ連占領区域を指揮することを任じられ、ソ連陸軍の最高司令官であった彼の前途は明るいように思われた。だがすべては、同年にスターリンがジューコフをあらゆる役職から解き、南部の遠隔地であるオデッサに送って現地の軍管区を指揮するよう命じた時に変わった。これほど偉大な戦争の英雄にとって、これは屈辱的な左遷だった。

 スターリンの言い分は根拠の薄いものだった。空軍を率いていたアレクサンドル・ノヴィコフ元帥が、ジューコフがスターリンに対して陰謀を企んでいると主張したというのだが、実際には、ノヴィコフはジューコフに不利な「証言」に署名するよう拷問で強要されていた。「私は道徳心を挫かれた。私はやけになっていた。眠れない夜が続いた。それを終わらせるために署名したのだ」とノヴィコフは後に告白している。だがこの強要された証言が、スターリンがジューコフを「ボナパルティズム」の疑いで左遷する根拠となった。

 実は、疑心暗鬼のスターリンは、将来ライバルになり得る彼を排除したかったのだ。ジューコフは戦時中あまりに有名になり、スターリンの権力独占に対抗してくる可能性があった。スターリンが偽の罪状で彼を左遷した理由を問われたジューコフはこう答えている。「彼は私の栄光を妬んでいたのだ。そして[内務大臣ラヴレンチー・]ベリヤがその感情をいっそう掻き立てたのである。」

静かな勤務

オデッサ軍管区司令官、ゲオルギー・ジューコフ、軍事訓練にて。 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国。

 1946年から1948年まで、ジューコフはオデッサで暮らし、犯罪撲滅に取り組んでいた。ナチスを破った軍を率いた男にしては、大きな後退だった。それでも、ジューコフは不服従の気配を一切見せなかった。1947年、現地当局は、戦後蔓延していた組織犯罪が撲滅されたと宣言した。ジューコフが犯罪者を裁判なしに現場で射殺することを認可したという噂が流れていた。これは単なる都市伝説かもしれないが、これは当時人々がジューコフに対して取っていた態度の表れでもあった。

 1948年、スターリンはジューコフをウラル軍管区の司令官に任じ、いっそうの奥地、スヴェルドロフスク(モスクワの1700キロメートル東)に送った。同年、ジューコフは占領下のベルリンで略奪を働いた罪に問われ、次のような言い訳をする羽目になった。「私は、誰にも必要ないだろうとの判断で不要なガラクタを倉庫に集めるべきではなかった。」  スターリンが死去する1953年まで、彼はスヴェルドロフスクにとどまった。

権力に復帰

 死の一ヶ月前、スターリンはジューコフにモスクワに戻るよう命じた。ジューコフは、スターリンが西側との将来的な戦争に向けて彼の軍事的手腕を必要としており、それで左遷を解かれたのだろうと理解した。いずれにせよ、スターリンの死後、ジューコフは国防次官に任ぜられ、ソ連の政策に決定的な影響を与えた。

ヨシフ・スターリンの葬式。

 彼はラヴレンチー・ベリヤを逮捕した者の一人だ。ベリヤはスターリンの最も強力かつ最も邪悪な取り巻きの一人で、ソ連の強権的かつ抑圧的な秘密警察として機能した内務人民委員部と深く関わっていた。後に指導者となるニキータ・フルシチョフとやや知名度の低いゲオルギー・マレンコフは、ベリヤと三人組を構成していたが、彼らを含む役人らはベリヤに反旗を翻した。ジューコフの軍内部での権威が大いに役立った。

 彼は武装した兵士を連れ、自らベリヤを逮捕した。「私は背後から近づき、『立て!  逮捕だ!』と叫び、立ち上がる彼の両腕を固定した」とジューコフは回想録で述懐している。ベリヤは後に処刑された(これにはジューコフは関与していない)。

スターリン主義に反旗

「空軍の日」の祝い。米国のネーサン・トワイニング(右)、ゲオルギー・ジューコフ(中央)、ニキータ・フルシチョフ(左)。

 ジューコフもフルシチョフと同様に、スターリンが生きている間は彼に忠実だったが、スターリンの死後は彼の過ちと不必要かつ残忍な弾圧政策を非難するようになった。歴史家のレオニード・マクシメンコフが指摘するように、ジューコフは、1955年から1957年まで国防相を務めた際、「スターリン主義とスターリン主義者に対抗する彼自身の計画を持っていた」。

 彼は、1930年代に冤罪で処刑された軍司令官らの再審を行った。責任者である複数の将軍を処罰し、解任した。

 マクシメンコフの考えでは、このことが、フルシチョフがジューコフを引退させるきっかけとなった。フルシチョフは、政府高官や彼自身を含め、どれほど多くの役人が1930年代の悪事に関わっていたか、よく知っていた。1930年代の犯罪行為に関与していた組織のメンバーを粛正することは、ソ連の体制全体に大きなダメージを与えかねなかった。そこで1957年、新指導部は、ジューコフが自身の権力を強めすぎていると糾弾し、彼を引退に追い込んだのである。

 この時、彼の軍のキャリアに終止符が打たれた。彼は回想録を記したり、時折インタビューに応じたりして余生を過ごした。内容の大半は戦争に関するもので、戦後の悪意に満ちた陰謀の時代に関してはほとんど語らなかった。

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