ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ・ジューコフ元帥の肖像画。パーヴェル・コリン作。
Vladimir Boiko撮影/Global Look Press大元帥、ルムニク・スヴォーロフ伯、イタリア大公アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・スヴォーロフ(1729–1800)の肖像画。
Vladimir Boiko撮影/Global Look Press大元帥アレクサンドル・スヴォーロフは、その長い軍歴のなかでただの一度も敗北を喫したことがない。彼の戦勝は60回以上にのぼるが、いちばん苦戦したのは、おそらく、1790年のオスマン帝国の戦略拠点「イズマイル要塞」の攻囲戦だったろう。
これはエカテリーナ2世の治世における第二次露土戦争の帰趨を決めた戦いだ。イズマイールは、ドナウ・デルタにある古都で、その要塞は戦略的要衝だった(現在はウクライナ領)。要塞は強固な防備を備え、高い城壁と深さ10mの堀をめぐらせてあった。その守備隊は約3万5000人(半数はトルコの精鋭部隊「イェニチェリ」)。スヴォーロフ率いる将兵は約3万1000人だった。
彼我の戦力差は、スヴォーロフは気にしていないように見えた。彼はトルコ軍に大胆不敵な最後通牒を送った。
「貴下の軍に、熟考、そして開城、自由のために、24時間を与えよう。我が軍の最初の射撃はすなわち要塞奪取を意味する。突撃は死を意味する」
要塞守備隊司令官の回答はこれにおとらず不敵なものだった。「イズマイールが降伏するほどならば、ドナウ川は逆流し、太陽は地上に落ちることだろう」
「1790年12月11日に行われたイズマイル要塞の攻囲戦」。E.ダニレフスキー、V.シビルスキーによって描かれたジオラマの左部。1972年。スヴォーロフ名称博物館、イズマイール。
Global Look Pressスヴォーロフは、城壁と堀を克服すべく、兵士を6日間にわたり訓練した後、夜明け前に3方向から要塞を急襲した。トルコ側は、異なる方向からの同時攻撃を予期していなかったので、いく分混乱した。しかしトルコ軍は都市を頑強に守り、激戦が繰り広げられた。だが朝になると、ロシア軍は要塞の外壁を突破し、市内に侵入した。市街戦は凄惨な殺戮に変わっていった。
「あらゆる建物から銃弾が飛んできた。…戦ったのは男だけでなく、女たちも探検を振りかざしてロシア人と死に物狂いで戦った…。あちこちで屋根が燃え落ちた。数千頭の馬が燃える厩舎から飛び出して通りを狂奔し、混乱の度を増した」
19世紀ロシアの歴史家は、この時代を画した戦闘をこう描いている(リンクはロシア語)。
午後4時までに、要塞は落ちた。 トルコ側の死傷は2万6000人におよび、9000人が捕虜になった。ロシア側の死傷は約2200人。後年、スヴォーロフは告白した。「こんな要塞の攻囲戦は一生に一度しかできない」
フョードル・ウシャコフ海軍大将の肖像画。画家は不明。19世紀。
もう一人の不敗の名将が、18世紀のフョードル・ウシャコフ海軍大将である。彼は単に不敗であっただけでなく、彼の指揮した船が失われたことも、指揮下の将兵が敵の捕虜になったこともない。
ウシャコフが参加した戦いのほとんどが、南方におけるトルコとのものだった。伝統的に強力なロシア陸軍とは異なり、黒海艦隊は、18世紀末になっても依然として建設の途上にあり、トルコのそれに対して劣勢だった。そのため、黒海艦隊はトルコとの決定的な戦いを避けていた。
しかし、こういう状況は、1790年3月にウシャコフがロシア帝国海軍総司令官になると一変した。彼は軍事演習にとくに重きを置いた。そして、当時のお決まりの戦術、つまり単縦陣(各艦が縦一列に並ぶ陣形)による並行砲戦を捨て、戦闘中により積極的に操艦する、柔軟かつ革新的なアプローチを支持した。伝統の並行砲戦ははっきりした勝敗がつきにくいので、イギリスのかのネルソン提督が駆使した「ネルソン・タッチ」と同じく、敵艦列を突破し、分断した艦隊を各個撃破する作戦を考案したのである。
こうした新機軸は、1790年9月の「テンドラ島沖海戦」で実りをもたらした。これは、ブルガリア沖の、黒海の制海権をかけた海戦の一つだった。
1790年9月8ー 9日に行われたテンドラ島沖海戦。アレクサンドル・ブリンコフ作。
中央海軍博物館、サンクトペテルブルクトルコ艦隊の方が戦力で優り、戦列艦14隻を擁していた。対するウシャコフ艦隊は10隻。にもかかわらず、ウシャコフは、砲火をトルコの主要な艦船に集中させる戦術を選ぶ。トルコ艦隊はこれに持ちこたえられず、算を乱して後退し始める。
「わが艦隊は、その後退の全行程を追跡し、撃滅していった」と、ウシャコフは後に報告した。 追撃は2日間続いた。ロシア艦隊は敵の旗艦を沈め、他の戦列艦を拿捕。結局、トルコ艦隊は戦列艦6隻と2000人以上の水兵を失った。ロシア側の損失は、21人が死亡、25人が負傷という結果に終わった。
「テンドラ島沖海戦は、戦術理論の面で、世界の海戦史上に名をとどめた。ウシャコフ提督は、海戦の戦術、操船の革新者であった。その効果は証明され、トルコの黒海支配の終焉につながった…」。ロシアの軍事史家はこう語った 。
ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ・ジューコフ元帥の肖像画。P.V.マリコフ作。
Vladimir Boiko撮影/Global Look Press3人目の軍司令官は、ソ連時代、第二次世界大戦においてその才能を発揮した。ゲオルギー・ジューコフ元帥は、「ソ連邦英雄」の称号を4回授与されたほか、多数の褒章に輝いている。彼は、ナチス・ドイツが無条件降伏の文書に署名した際にソ連を代表した。1945年6月に、モスクワの赤の広場で戦勝パレードで、白馬にまたがり閲兵したのも彼だった。
ジューコフは、独ソ戦(大祖国戦争)の最後の戦闘「ベルリンの戦い」を含め、ソ連軍の主要な作戦を立案・実行する上で決定的な役割を果たした。ベルリンの戦いでは、彼が指揮する第1白ロシア方面軍は、ドイツ軍が頑強に固めた陣地を攻撃しなければならなかった。
1945年のベルリンでの戦争の開幕。市内観光中にブランデンブルク門を背景に撮影されたゲオルギー・ジューコフ元帥、アーサー・ピーク(赤軍の将校とベルザーリンの通訳)、ニコライ・ベルザーリン(戦後初のベルリン司令官)。
DPA撮影/Global Look Pressこの攻撃は、1945年4月16日の夜、かつてないほど強力でしかも調整された砲撃で始まった。その後、夜明け前に、戦車部隊が歩兵部隊に掩護されて戦闘に入った。それは、前進する部隊の後ろに設置された多くのサーチライトの照射により可能となった。
2週間後の 5月1日、ドイツの首都の国会議事堂の上に赤旗が掲げられた。 歴史家の大部分は、ジューコフの軍事的天才を高く評価しており、なかには「戦術のパガニーニ」と呼ぶ者もいる。
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