①「モノマフの帽子」はビザンツ皇帝コンスタンチノス・モノマコスとは無関係
『ウラジーミルの公たちの物語』によれば、ビザンツ皇帝コンスタンチノス・モノマコス(1000~1055年)は、この「帝冠」を自分の外孫ウラジーミルが即位してキエフ大公、ウラジーミル2世モノマフ(1053~1125年)となるに際して贈った。こうしてビザンツ皇帝は、外孫の威光と全ルーシ(ロシアの古名)の地を受け継ぐ権利を強調した。「以来、今日に至るまで、同じ帝冠により、ウラジーミルの公たちも、ルーシの大公位に即位しているのである」。こう『物語』には述べられている。
ところが実際には、この伝説はずっと後に考え出されたものであり、「モノマフの帽子」について言えば、すべてでたらめである。コンスタンチノス・モノマコスは、孫が2歳のときに死んでいるから、どんな「聖遺物」も贈る暇はなかっただろう。
現代の歴史家たちの推測によると、「ビザンツの遺産」なる伝説を考えついたのは、ずっと後のワシリー3世(モスクワ大公在位1505~1533年)の治世である。16世紀に、モスクワ大公たちは「炎と剣によって」ロシアの地を統一したが、最高権力への権利を証する、古来から伝わる象徴が必要になった。偉大なるビザンツ帝国の皇帝から贈られたという触れ込みの王冠は、権力の結構な根拠になったわけだ。
② いまだに制作者は不明
では、「モノマフの帽子」の出所は?いつ誰が作ったのか?「ビザンツ説」以外に、「キプチャク・ハン国説」もある。キプチャク・ハン国の支配者が、ロシアの臣従ぶりを賞して、この伝来の品を贈った。そのため、この高価な王冠は、やや東方の、タタール的な外観をもつ、というのである。
だが、この説にも矛盾がある。研究者セルゲイ・ボガトゥイリョフが指摘するように、これは、王冠よりもタタールの女性の帽子に似ている。しかし、「モスクワ大公たちは、普通は男性の品のほうに興味があった」
そう言うボガトゥイリョフ自身は、また別の説を唱えている。
「『モノマフの帽子』は、モスクワでワシリー3世の時代に、大公国の宝物庫に保管されていた様々な黄金の断片から作られた」。こうした事情から、この王冠の構造上の不正確さが説明されるという。実際、何枚かの黄金の板に施されている装飾は、お互いにてんでんばらばらで、不均等である。
③ 九人のツァーリがこれで即位:伝統を破ったのはピョートル大帝
最初に「モノマフの帽子」をかぶって即位したのは、ワシリー3世の息子であるイワン雷帝(4世)である。彼は初めてツァーリ(カエサル、シーザー)、すなわち皇帝を名乗った。
芸術学者ヴィクトリア・ゲラシチェンコは、ロシアのツァーリの戴冠式用衣装――その要をなすのが「モノマフの帽子」である――を聖堂になぞらえている。正教の聖堂は、神からつかわされた権力が具現化したものである。「モノマフの帽子」の天辺に十字架が立っているのは、ちゃんと意味がある、というわけだ。
イワン雷帝に続いて「モノマフの帽子」を戴いたのは、彼の息子フョードル(リューリク朝最後のツァーリ)、そして、内乱と外国軍の干渉で国が四分五裂した、いわゆる「大動乱(スムータ)」の時代のツァーリたちだ。すなわち、ボリス・ゴドゥノフ、偽ドミトリー1世、ワシリー・シュイスキー。それから、ロマノフ朝初期のツァーリたち――ミハイル・フョードロヴィチ、アレクセイ・ミハイロヴィチ――である。
ロマノフ家で最後に「モノマフの帽子」をかぶって即位したのはイワン5世だ。彼の弟ピョートル(未来の大帝)は、その共同統治者として同時に即位した。
ところがピョートルは、同時に即位したのに、「モノマフの帽子」のレプリカでがまんしなければならなかった(二人の共同統治は、イワン5世が1696年に死去するまで続く)。
後にピョートルは、ロシアを帝国と宣言し、戴冠式を西欧風にした。「モノマフの帽子」はどうなったかというと、それまでロシアのツァーリたちは178年間にわたりかぶり続けてきたわけだが、クレムリンのウスペンスキー大聖堂に移された。そして、戴冠式に際して、「ツァーリの威光の記念」として示されるようになった。
④ ほかにもツァーリの帽子(王冠)はあった
「後には、『モノマフの帽子』に基づいて、ツァーリの王冠が他にも作られた。『カザンの帽子』、『シベリアの帽子』、『ダイヤモンドの帽子』などである」。こうゲラシチェンコは書いている。
これらの王冠は、基本的に、特別な場合に制作された。例えば、「カザンの帽子」は、1552年にカザン・ハン国がモスクワ大公国に併合されたことを記念している。「ダイヤモンドの帽子」は、イワン5世のために、武器庫の職人が作った。
ちなみに、ロシアのツァーリたちを描いた絵画を見ると、オリジナルの「モノマフの帽子」は、さまざまな風に描かれている。まるで神が魂にかぶせているみたいに描かれることもあった(ふつう画家は、王冠の現物は見なかった)。この場合、重要なのは、その宗教的、儀式的な意味であり、その細部を正確に伝えることではなかった。
⑤ 権力とそれに対する責任の主要なシンボル
「ああ、モノマフの帽子は重い!」。これは、ボリス・ゴドゥノフが、詩人アレクサンドル・プーシキンの同名の悲劇で吐くセリフだ。ボリスは、正式の帝位継承者が非業の死を遂げた後で(ボリスが下手人だとして非難される)、民衆の不満と動乱の拡大を目の当たりにする。
このボリスの言葉は、アフォリズムとなった。アフォリズムが強調するのは、権力は単に大きな可能性であるばかりでなく巨大な責任でもある、ということ。ボリス自身は病で死んだが(もっとも、彼の妻子は悲惨きわまる目に遭った)、彼からモノマフの帽子、つまり帝位を奪った偽ドミトリー1世は、やがて帝位を自分の首もろとも失うことになる。