ロシアを変えた4つの新聞・雑誌

アレクサンドル・マカロフ撮影/Sputnik
 新聞・雑誌は時に、ロシアの生活の中で決定的に重要な役割を果たした。 ここにそのようなメディアを4つご紹介しよう。

1.新聞「ヴェドモスチ」

ロシアで初めて印刷された新聞、「ヴェドモスチ」の一頁。1703年1月。

 「ヴェドモスチ」とは、報知、ニュースという意味だ。このロシア初の本格的な新聞は、ピョートル1世(大帝)が1702年に導入した。新聞創刊が必要だったのは、長引いていた大北方戦争(1700~21)と関係がある。ピョートル1世は、バルト海の覇者スウェーデンと戦い、この海に進出しようとした。しかし当初は苦戦したので、ツァーリはなぜこの戦争を続けることが必須かを国民に説明しようと考えた。と同時に、いくつかの非常手段――例えば、大砲鋳造のために鐘を溶かすなど――を正当化したかった。

 ピョートル自身、新聞に多くの注意を払い、ときに編集長として働き、資料を集め、トピックを提案した。また、読者層を増やすために、新聞を居酒屋で無料で配るよう命じた。

 創刊号が出たとき、ピョートルは熱心にあちこちの宮殿でそれを示したと言われている。

 新聞は小ぶりで、とくに印象的には見えなかったので、貴族の一人が、ドイツではるかに優れたものを見たと言った。ピョートルは怒って、「ささやかでも然るべく理解せよ。そうすれば大きなものが出るだろう」と言い返した。

2.文芸誌「現代人」(ソヴレメンニク)

1836年に設立された文学雑誌「ソヴレメンニク」の第一号。右側には「ソヴレメンニク」の編集者たちの写真(1856年)。左から右:作家イワン・ゴンチャロフ、イワン・トゥルゲーネフ、アレクサンドル・ドゥルジーニン、劇作家アレクサンドル・オストロフスキー。立っているのは(左から右)作家レフ・トルストイ、ドミトリー・グリゴロヴィチ。

 文芸誌「現代人」(ソヴレメンニク)ほどロシアの文学活動や社会生活に影響を与えた雑誌は、おそらく他にないだろう。1836年に、最も有力なロシアの詩人の一人、アレクサンドル・プーシキンが創刊。

 「現代人」は、イワン・トゥルゲーネフやフョードル・ドストエフスキーの最初期の作品を発表している。レフ・トルストイを発見したのも同誌だ。

 当時、弱冠24歳だった未来の文豪は、処女作『幼年時代』に、こんな手紙を添えていた。「私は貴誌の審判を一日千秋の思いで待っています。その審判により、私が好きな活動を続けるか、または既にやったことのすべてを焼き捨てざるを得なくなるかのいずれかになります…」。小説は掲載されたので、トルストイは原稿を火中に投じる必要はなくなった。

 しかし1850年代後半に、トゥルゲーネフとトルストイは「現代人」を去った。同誌が急進的な社会、政治思想の宣伝の牙城に変貌したからだ。それは、アレクサンドル2世の改革が始まりつつあった頃で、一連の改革によりロシアは急激に近代化していった。近代化は、ロシアの社会、政治をかつてないほど大きく揺るがした。

 「現代人」は、革命のアピールさながらの記事を載せた。ニコライ・チェルヌイシェフスキーの有名な小説『何をなすべきか』は、ロシアの革命的青少年へのマニフェストとなったが、1863年に、同誌が初めて掲載している。検閲官がうっかり誤って掲載許可を出したためで、ロシアでの再刊は40年以上たってからのことだ。まもなく当局の堪忍袋の緒が切れ、ツァーリ自らの命令で、「現代人」は廃刊となった。

3.新聞「鐘」(コーロコル)

ゲルツェンとオガリョフによって出版された新聞「コーロコル」の第一号。ロンドン、自由ロシア出版社、1857年。

 1850年代後半、ロシアの革命的社会思想家・作家、アレクサンドル・ゲルツェンは、ロシアから亡命した後に、新聞「鐘」(コーロコル)を創刊した。これは、ロシア初の革命的新聞と呼ばれている。「コーロコル」は、ロンドンで発行され、非合法でロシアに持ち込まれた。

 この新聞は、そのときどきの焦眉の問題を取り上げたので、たちまち非常な人気を博した。その流通ぶりは、ロシアの合法的出版物に匹敵するほどだった。

 「コーロコル」は、ロシアの政府関係者から機密情報を入手して公開した。一例は、1859年と1860年の国家予算の細目だ。また政府役人の汚職を糾弾するなど、不正を暴露した。皇帝アレクサンドル2世自身も、「コーロコル」の読者の一人だった。

 いくつかの閣僚会議で、報告を行っていた役人に、ツァーリは、ああ、それならもう「コーロコル」で読んだよ、と言ったという。

 しかし、1863年に「コーロコル」がポーランドの蜂起を支持したとき(ポーランドの領土の一部は、ロシア、プロイセン、オーストリアが18世紀後半にポーランドを分割した後、ロシアに組み込まれていた)、ロシアのリベラルな読者のかなりの部分も、この新聞から離れた。その後まもなくこのプロジェクトは終わった。

4.新聞「プラウダ」(真実)

電気機械工場の旋盤工たちが「プラウダ」を読んでいる。

 「プラウダ」(真実)は、ソ連共産党機関紙で、75年間にわたり、ソ連の主要な新聞であった。1912年に、労働者のためのボリシェヴィキの合法的な新聞として創刊。最初の数年は、最大の執筆者は、後のソ連の建国者、ウラジーミル・レーニン自身だった。当時レーニンは、約300もの記事を載せている。

 1917年の十月革命の直後に、「プラウダ」は、他の印刷媒体に優越することになった。このとき、「反動的」なメディアはすべて閉鎖され、ボリシェヴィキ党(後のソ連共産党)の承認を得たもののみが入手可能となった。

 スターリン時代になると、「プラウダ」の記事は、政府の決定にほとんど等しかった。国のキャンペーンのいくつかは、このソ連の主要紙に掲載された後で始まった。

 ソ連における「プラウダ」の位置がどんなものかを物語るエピソードがある。この新聞が、炭鉱夫スタハノフの採炭の記録について記事を載せたときのことだが(「生産性向上運動」は、彼の苗字を冠して「スタハノフ運動」と呼ばれるようになった)、彼の名アンドレイの代わりにうっかりアレクセイと書いてしまった。

 スターリンは、この件について知らされたとき、「『プラウダ』は間違いを犯すわけにはいかない」と言った。その結果、スタハノフはさっそく翌日、新しい名前が記された新しいパスポートをもらった。

 なお、「プラウダ」は今日にいたるまで、ロシア共産党の機関紙として刊行されている。

 

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