ソ連パルチザンの3つのエピソード: 独ソ戦で不可能を成し遂げる

フルンゼ名称部隊のソ連のパルチザン。クルスク付近の村。1943年。

フルンゼ名称部隊のソ連のパルチザン。クルスク付近の村。1943年。

ヤコフ・リュムキン撮影/Sputnik
 第二次世界大戦中、ソ連のパルチザンは、単なる軽微なサボタージュ、妨害行為や、小規模な待ち伏せ攻撃以上のことを成し得た。彼らは例えば、ドイツの交通システム全体を麻痺させ、ナチの高級将校の一人を暗殺している。

1.ヴィルヘルム・クーベの暗殺

ヴィルヘルム・クーベ

 ヴィルヘルム・クーベは親衛隊中将で、独ソ戦中は白ロシア(べラルーシ)の行政委員。ソ連パルチザンによるヴィルヘルム・クーベの暗殺は、小国の堅固に守られた独裁者を暗殺したようなものだった。このベラルーシの行政委員は、東ヨーロッパの広大な領域(人口800万)で無制限の権力を行使していた。

 彼がベラルーシを統治している間に、200以上のユダヤ人ゲットーと260の「死の収容所」が設置され、ユダヤ人と共産主義者の大量殺戮が始められた。だから、クーベがソ連の地元パルチザン部隊とスパイにとって最大の標的になったことは驚くに当たらない。

 パルチザン部隊によるクーベ暗殺の試みはすべて、女性ボランティアのエレーナ・マザニクが実行するまでことごとく失敗していた。彼女は、クーベの邸宅でメイドとして働いていた。

エレーナ・マザニク

 1943921日、エレーナは、彼女を完全に信用していた警備員の目をかすめ、時限爆弾をこっそりクーベのベッドの下に置いた。

 エレーナはすぐさま邸宅を後にした。爆弾は922日夜に爆発し、ナチス・ドイツの枢要な高級将校の一人を殺した。

 エレーナはパルチザン部隊のもとに戻り、部隊は彼女をモスクワに送った。そこで彼女は「ソ連邦英雄」の称号を授与されている。 

2.「鉄道の戦い」

パルチザンが線路に地雷を仕掛ける。

 ソ連軍が「クルスクの戦い」で戦争の主導権を握りつつあった間、パルチザンも傍観してはいなかった。194383日、彼らは敵の鉄道インフラを破壊することを目的とした作戦「鉄道の戦い」を始動させた。

 ひと月半の間に、ウクライナ、ベラルーシの各共和国、スモレンスク、オリョール、レニングラードの各都市の付近で活動する10万人以上のパルチザンが鉄道、列車、橋、駅を爆破し始めた。

爆破された車両

 215000本の鉄道と数十の橋が破壊され、1千以上の列車が脱線。駅や鉄道に近いドイツ軍の小規模な駐屯地が攻撃され、撃滅された。結果として、東部戦線のドイツ軍の輸送と交通は40%も減少した。敵はソ連軍の攻撃にさらされて後退しつつ、必要な装備と食料の急激な欠乏に陥った。

 1943919日、パルチザンは、第2作戦(コードネーム「コンサート」)を開始した。この時は、クリミア半島とバルト三国のドイツ占領地域の同志らも、作戦に加わった。

3.ヤノフスキ森の戦い

 1944年の春、ポーランド南東部のヤノフスキ森は、パルチザンの大部隊が集結する中心地となっていた。ここでドイツ軍に近接して生活し戦っていたのは、ポーランド労働党(PPR)により組織された共産主義パルチザン「人民軍」、ソ連のパルチザン部隊、そして40万以上の人員を擁するポーランド最大のレジスタンス組織「国内軍」(Armia Krajowa)のいくつかの部隊だった。

 ソ連軍が既にポーランド国境に迫っていた状況をにらんで、ドイツ軍司令部はヤノフスキ森の不安要因を一掃することに決めた。 68日、砲兵、戦車、航空に支援されたドイツ軍3万がヤノフスキ森の3千人のパルチザンを包囲、殲滅すべく、作戦「旋風1」を開始する。

ソ連のパルチザンがドイツ軍に対する攻撃を計画している。

 兵力でまったく劣勢だったにもかかわらず、ソ連とポーランドのパルチザンは激しく抗戦した。614日に、Porytowe Wzgórzeでとくに熾烈な戦闘が起きた。終日パルチザンは、絶えず反撃に出ながら、ドイツ軍の攻撃を持ちこたえた。ある戦闘の間に、彼らはいくつかの大砲を奪い、それが包囲を破る助けとなった。

 夜が来ると、パルチザンは脱出し、敵は敢えて追おうとしなかった。 パルチザン側は、200人が戦死したが、ドイツ側の損失ははるかに大きかった。600人が死亡し、1400人が負傷した。     

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