元女性兵士の語る独ソ戦

=アンドレイ・シャプラン撮影

=アンドレイ・シャプラン撮影

67回目の大祖国戦争(独ソ戦)戦勝記念日を前に、「ロシアNOW」が元女性兵士に話を聞いた。

「おそらく、戦争の記憶が消えてしまわないように、私は生きのびたのよ」と、ニーナ・ノブゴロドワさんは笑みを浮かべて語り始めた。ニーナさんは素晴らしい語り手だ。その若々しい声と目の輝きは、自分が戦争体験者にインタビューしているのだということを、一瞬忘れさせてしまう。

戦争当時、彼女らは17歳くらいだった。恋をして、将来のプランを描こうという時期に戦争が起きたのだ。想像もつかぬほどの重荷が彼女らの肩にのしかかった。そして、二十歳にもならない年齢で(つわもの)になり、指揮官の職務に就き、軍功賞を受けたのである。

高齢や病身にもめげず、彼女らは中等学校や大学をまわり、戦争体験の話をする。聴衆は熱心に耳を傾ける。歴史が教科書の記述でなくなったとき、それを自分の歴史として追体験することになる。

ニーナ・アンドレーエブナ・ノブゴロドワ (第111旅団医務局曹長)

ドイツ軍にはボロネジ郊外に大きな飛行場がありましたたが、ソ連空軍は1942年当時、まだ非常に弱く、数も少なかったのです。毎日、20機、25機、30機と飛んできて、前進基地が攻撃されました。その近くにいた私たちの任務は、火傷した者や負傷者を収容することでした。爆撃のたびに、「これでおしまいだ。誰も生き残れないだろう」と思いました。でも第一波の爆撃が終り、見ると大地がまた生き始めている。それが2時間か2時間半ごとに起きるのです。仕事をしていると、恐怖も感じなくなりました。

戦闘の合間に私たちがやることと言えば、包帯を準備することくらいでした。包帯はすぐ尽きてしまい、救急カバンを補給する間もありませんでした。「戦闘準備」の命令が出たら、私たち女性兵は、何はともあれ、必ず身体を洗い、きれいな下着を着用し、万一の場合にそなえて、認識票を入れた容器をポケットに入れました。準備はそれだけです。「殺されたら、もうどうしようもない。でも負傷したら、すぐに服を脱がされる。そんなとき、ちゃんとしていなくちゃいけない」と私たちは考えていたのです。

私たち女性兵に、防水マントの役目も果す米国製の個人用テントが支給されたことがあります。とても薄くて、生地もよい。でも私たちは思いました。「こんなのを着て、どうやって作業できるのよ」ってね。誰が思いついたのか知らないけれど、この防水マントで服を作るのです。前線の様子を写真に撮るだけでなく、女性兵を撮るのも好きだった、仲のよい報道カメラマンがいて、その人が教えてくれたんです。「許可をもらって軍団司令部に行ってこい。あそこには、将校たちの軍装品の縫製や修理をする、特別のアトリエがある」ってね。言われたとおり、司令部に行きました。裁縫師は男性だけでした。私たちはテント兼用防水マントを取り出して、「これを服に作り直してはいけませんか」と聞いてみました。裁縫師は、はじめは笑いましたけど、そのあと「いいだろう」って言ってくれました。

早い話が、私たちがアトリエを出たときには、服を持っていたというわけです。宿泊地の村に帰り、夕方にはその服で着飾りました。私たちの衛生小隊に、よく斥候兵が来ていました。やってきて、私たちの姿を見て、最初はさっぱりわけがわからないという様子でしたが、しばらくして「おやまあ、何て美人さんたちだ」って言ってくれましたよ。

私の最初の戦闘は夏でした。そのとき、負傷した女性兵を見て、初めて恐怖を体験しました。女性兵は医務衛生小隊(常に軍の部隊と一緒に移動する小隊)の担架に乗せられていました。連れてこられた女性兵は、木の台にかぶせたシーツの上に乗せられ、手術を受けました。その様子は今でも目に浮かびます。女性兵は右手をほとんど肩近くまで骨折していて、その右手が切断されました。右手は台の脇の緑の草の上に置かれました。負傷した女性兵を見て、それから、指にマニキュアを塗った跡のある右手を見ました。ソ連の女性詩人、ユリヤ・ドルーニナの詩句にあるように、「戦争が怖くないと言う者は、戦争のことを何も知らない」のです。

私たちがベルリンにさしかかった頃、急に隊列が停止しました。立ち止まったまま待っていると突然、目に映ったのは、私たちの方へ向かってくる人たちの姿でした。ヒットラーがベルリン近郊の住民全員に、ソ連軍の捕虜にならないよう、土地を離れてベルリンへ行けと命令しました。しかし、私たちソ連軍が事実上ベルリン市内に入ったとき、その人たちが逆方向に移動し始めたのです。ある者は乳母車を押し、ある者はトランクを手に、のろのろと歩いており、その多くは子ども連れでした。でもその行列に誰も爆撃を加えたりしませんでした。その反対に、ソ連軍の医者たちは、非戦闘員の住民たちを助け、特に大人と一緒に歩いていた子どもたちを助けてやっていました。それは今も記憶に残っています。

一番恐ろしいのは、戦闘後の光景を夢に見るときです。夜明けにすべてが終わり、私たちの車は用心深く前進しています。機雷が敷設されているのです。周りは壊れた戦車や車、前方は街。そこにも倒れた電柱やちぎれた電線。すべてが廃墟そのものなのです。

私たちが戦場で美しいものを見られたかという質問ですね。まあ聞いてください。私たちはポーランドを通って移動していました。夕方近くに、公園に建つ邸宅にさしかかりました。邸宅は3階建てで、2階の周囲は一続きのバルコニーでした。そのバルコニーから見た公園の景色は見事な美しさでした。建物の中には広大なホールがあり、その隣は素晴らしい本が並ぶ大きな部屋がありました。ヴェネツィア式の3連窓があり、カーテンが風にゆれていました。ホールには、暗赤色のグランドピアノがありました。清潔で真新しくて、お店から運び込ばれたばかりのようでした。私たちはこの楽器の周りをぐるりとまわりましたが、私たち女性兵は誰もピアノを弾けませんでした。そのとき、ホールに兵士の一団が入ってきました。一人の将校が楽器に近寄り、椅子に腰かけて、ピアノを弾き始めました。戦争前の生活の雰囲気がにわかに漂いました。信じられないことでした。しばらくすると仲間の女性兵たちが、「ニーナ、ニーナ」と叫びました。隣の部屋で山のように大量のレコードを見つけたのです。あれこれ手に取って、それから一枚のレコードをかけました。何のレコードだったかは覚えていませんが。音楽が流れ出しました。カンタータだったかオラトリオだったか、とても力強いポリフォニーな音楽が流れて、ただもう胸が震えました。そしてさらに、女性の高音の素晴らしい声が流れ、その後その声は低くなって、多声合唱と融合しました。私は大声をあげて泣き出してしまいました。