デカブリストの反乱
啓蒙思想、フランス革命、祖国戦争
18世紀半ばから、ロシアの貴族のなかには、ルソーをはじめとするフランス啓蒙思想の影響を強く受ける者が現れた。やがて彼らは、フランス革命の勃発と進展、そしてナポレオンの出現を目の当たりにし、いわば思想の現実的な力を認識することになる。
祖国戦争がはじまると、何人かのデカブリストたちが手記に書き残しているように、彼らは、農民出身の兵士たちと身近に接する一方で、西欧の近代化にも直接触れることができた。
こうして、専制と農奴制の廃絶をめざす、ロシア初の革命家たちが出現する。
地下にもぐる
しかし、ナポレオン戦争後のウィーン体制は、正統主義と勢力均衡を旗印に、現状維持をはかるもので、欧州全体もロシアも反動化したから、この革命家たちは表立った活動をする余地はなく、秘密結社をつくって活動する。
いくつかの秘密結社は、立憲君主制をめざす北方結社と、共和制をめざす、よりラディカルな南方結社にまとまった。
準備不足のまま蜂起
1825年11月に、アレクサンドル1世が急死し、後継者をめぐって混乱して空位状態となり、いきなりチャンスが訪れた。その一方で、計画が政府に漏れているとの噂が流れ(これは事実で、アレクサンドル1世にも報告されていた)、デカブリストたちは、準備不足のまま蜂起を強行した。
反乱はいずれも簡単に鎮圧され、579名が裁判にかけられ、首謀者と目された5人は絞首刑に処せられた。
後に大きな影響
新帝ニコライ1世と政府は専制を強化するが、この事件は、のちのロシアの革命運動のさきがけとして大きな影響をもった。また、ウィーン体制の矛盾を露呈し、この後の欧州のあいつぐ革命運動を予告するものでもあった。
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