デカブリストの反乱

デカブリストの反乱

デカブリストの反乱

1825年の今日、12月26日(ユリウス暦12月14日)に、サンクトペテルブルクの元老院広場で、専制と農奴制の廃絶をめざし、貴族の将校たちが武装蜂起を敢行した。デカブリスト(12月党員)の名は、ロシア語で12月をデカーブリということから名づけられた。

啓蒙思想、フランス革命、祖国戦争 

18世紀半ばから、ロシアの貴族のなかには、ルソーをはじめとするフランス啓蒙思想の影響を強く受ける者が現れた。やがて彼らは、フランス革命の勃発と進展、そしてナポレオンの出現を目の当たりにし、いわば思想の現実的な力を認識することになる。

祖国戦争がはじまると、何人かのデカブリストたちが手記に書き残しているように、彼らは、農民出身の兵士たちと身近に接する一方で、西欧の近代化にも直接触れることができた。

こうして、専制と農奴制の廃絶をめざす、ロシア初の革命家たちが出現する。

地下にもぐる 

しかし、ナポレオン戦争後のウィーン体制は、正統主義と勢力均衡を旗印に、現状維持をはかるもので、欧州全体もロシアも反動化したから、この革命家たちは表立った活動をする余地はなく、秘密結社をつくって活動する。

いくつかの秘密結社は、立憲君主制をめざす北方結社と、共和制をめざす、よりラディカルな南方結社にまとまった。

準備不足のまま蜂起 

1825年11月に、アレクサンドル1世が急死し、後継者をめぐって混乱して空位状態となり、いきなりチャンスが訪れた。その一方で、計画が政府に漏れているとの噂が流れ(これは事実で、アレクサンドル1世にも報告されていた)、デカブリストたちは、準備不足のまま蜂起を強行した。

反乱はいずれも簡単に鎮圧され、579名が裁判にかけられ、首謀者と目された5人は絞首刑に処せられた。

後に大きな影響 

新帝ニコライ1世と政府は専制を強化するが、この事件は、のちのロシアの革命運動のさきがけとして大きな影響をもった。また、ウィーン体制の矛盾を露呈し、この後の欧州のあいつぐ革命運動を予告するものでもあった。