なぜボリシェヴィキは土葬を嫌い火葬にこだわったか?

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 土葬か火葬か?ロシア・アヴァンギャルドの画家、カジミール・マレーヴィチは、火葬を主張し、ボリシェヴィキは墓地を嫌い、教会に火葬場が設置された…。

 ロシア革命後の1920年末。冬のサンクトペテルブルク。詩人ニコライ・グミリョフ、画家ユーリー・アンネンコフ、そしてボリシェヴィキの幹部、ボリス・カプルーンは、某女性と過ごしていた(カプルーンは、グリゴリー・ジノヴィエフの部下で、当時は、偉大なバレリーナ、オリガ・スペシフツェワの夫だった――編集部注)。

 彼らはカプルーンのオフィスでワインを飲み、「ホイットマン、ポー、キップリングについて話していた」。アンネンコフはこう振り返る。この男性トリオは頻繁にこのオフィスを訪れていた。ここで、カプルーンは仲間に「エーテル」を飲ませた。これは、トリオが好んだ“レクリエーション用の”ドラッグだ。

 アンネンコフの回想は続く。「カプルーンは腕時計をちらと見て、受信機を手に取り、『車を回せ!』と叫んだ。 それは見事なベンツだった。ある資本家のガレージからぶんどったものだ。カプルーンは説明した。30分ほどで新しい火葬場をテストする。遺体安置所から運んできた死体を焼くことになるだろう、と。彼は我々にも同行を勧めた」

 「巨大な格納庫に入ると、ボロ切れ覆われた死体が床の上に際限なく並んでいた。火葬場の所長が我々を待ち構えていた。『ご婦人に選んでいただこうじゃないか』。カプルーンは女性に向かって言った。彼女は、我々を怯えたような目つきで見て、おずおずと死体の間を数歩進み、死体の一つを指さした。『イワン・セジャキン、乞食』。死体の胸に置かれた汚い厚紙に鉛筆で書いてあった。『最後なるものが最初になる、というわけだ』(*マタイ伝 19.30 : 20.16より――編集部注)。カプルーンは言い放ち、我々の方を見てニヤリと笑った。『どうだ、うまいジョークだろう?」

火葬された者には「最後の審判」はない

 ロシア最初の火葬場は、日本人のためのものだった。1917年以前に、ウラジオストクで建てられている。日本の文化では、火葬は一般的だが、ロシアでは、今日にいたるまで教会は死者を焼くことを認めていない。1909年、ロシア正教会を統括していた聖務会院(宗務院)は、公式に火葬を非難している。

 ボリシェヴィキが政権の座に就いたとき、最初の施策の一つは、出生と死亡の登録から正教会を排除することだった。以前は、すべての出生は、教会で登録されていたし、葬式は、司祭の立ち合いのもとでのみ行われていた(ただし自殺した者を除いて。自殺者は、基本的に教会で葬式等の儀式をしてもらえなかった)。

 ところが今や、宗教が廃され、教会は葬儀から切り離されることになった。ボリシェヴィキが火葬を強く主張したのはそのためだ。しかし、正教会の信者は、火葬された人々は「最後の審判」の後で復活することができないと信じていたので、火葬は反宗教的であるとみなしていた。

 その一方で、革命後の内戦の時期には、サンクトペテルブルクとモスクワの街路には、多数の死体が転がっていた。

 「レフォルトヴォでは、夜になると、狼が腸チフスで死んだ人たちの死体を食べていた。墓地へ行く人が列をなしていた。人々は、病院で治療を受けるために何日も待っている。ある者はその場で死に、ある者はあきらめて病院を去る。病院にはお湯がない。人は、風呂にも入れられず、消毒さえされずに、退院させられる。物資、備品は何もなく、医者はハエのように死んでいく」。プラスコーヴィア・メルグノワは、191931日にこう記している

 こういう状況だから、火葬場は不可欠であった。モスクワとサンクトペテルブルクはこれほど多数の死者には対応できなかった。1919年、ソ連の建国者、ウラジーミル・レーニンは、火葬を奨励する法令に署名したが、その時点ではまだ火葬場はなかった。

「数千の墓地が1つの棚に収まる」

 「死んだ男を焼けば、1グラムのすすになる。数千の墓地が1つの棚に収まる」。画家マレーヴィチは1919年に書いている。初期のボリシェヴィキたち(ソ連共産党)は、昔の世界を消滅させるためにも、墓地をなくしたがっていた。

 1920年、ボリス・カプルーンは、火葬場の建設に関する委員会を率いていた。200人以上が、建築プロジェクトに入札した。関心は極めて大きかった。カプルーン友人だったアンネンコフは、火葬場のためのエンブレムを制作した。煙の出ている頭蓋骨の上にワタリガラスがとまっている、という図だ(残念ながら、このスケッチは失われた)。

  「死亡した市民はすべて、火葬される権利を有する」と、新しい火葬場の宣伝には書いてあった。火葬場の置かれる場所は、サンクトペテルブルクの主要な修道院であるアレクサンドル・ネフスキー大修道院に割り当てられた。当然ながら、この場所の選択は、正教会を当惑させた。

 これに加えて、白軍のニコライ・ユデーニチ将軍の猛攻撃で、プロジェクトにブレーキがかかった。その結果、カプルーンは急遽、ワシーリエフスキー島の古いバーニャ(蒸し風呂)に火葬場を設けることを強いられた。最初の死体が公式に焼かれたのは、19201214日、この島でのことだ。

 ロシア・ソ連の有名作家コルネイ・チュコフスキーは、最初期の火葬の一つに立ち会っているが、19211月にこう記している。

 「カプルーンは火葬場に入った。まるで劇場のようだ。彼は我々を、荒れ果てたホールに案内した。我々は笑った。いかなる信心深さも、壮大さもない。どこもかしこもがらんとしていて、あからさまだ。火葬場を飾る宗教も詩もない…。若いエンジニアが叫んだ。『そいつを置け!』。白い上っ張りを着た葬儀屋たちは、天井からぶら下がっている巨大な金属性の鉗子(かんし)のようなものをつかんだ。…その上にぐらぐら揺れる棺を置いて、それを炉に押し込んだ。窓から、それがどう燃えたか、炎がどれだけ陽気で親切かを見た」

火葬場にされた教会

 この最初のサンクトペテルブルクの火葬場は、わずか2ヵ月しか運営されなかった(しかしその間に400体以上の遺体を焼いた。それは主に乞食、身元不明の人々、そして戦争の捕虜だった)。その後は閉鎖されてしまった。運営があまりに高くついたからだ。

 しかし政府は、火葬の奨励を続けた。1925年には、モスクワの雑誌が、こんなタイトル付きの記事を発表している。「人間の死体の焼却は、ますます支持者を獲得している」

 ボリシェヴィキは、サンクトペテルブルクで実現できなかったことをモスクワでやった。1927年、ドンスコイ火葬場が、ドンスコエ墓地の真上にある、未完成だった「サロフの聖セラフィム教会」に設置された。モスクワのこの場所は、信者の崇敬を集めていた。

 教会の丸屋根(ドーム)は、高さ20メートルの煙突に置き換えられた。地下には、遺体安置所、シャワー、オフィスがあった。この火葬場は、モスクワのドイツ人街にある破壊されたルーテル教会から1898本のパイプをもつパイプオルガンを持ってきて使用した。

 だがもっと悲しむべき事実は、ドンスコイ火葬場の炉は、エンジニアリング会社「Topf and Sons」によって設置されたことだ。この会社は後に、ブーヘンワルト、ダッハウ、マウトハウゼン、モギリョフ(マヒリョウ)・ゲットー、グロース・ローゼンなどの強制収容所のために、炉を造ることになる。

 だからこの建物には、多くのドイツ人とロシア人の悲しい運命が絡んでいた。最初の死体焼却は19261229日に行われた。火葬は1.5時間で完了し、非常に効率的だった。正式の開業は、192710月。「無神論の演壇」というあだ名がつけられ、1973年まで運営されていた。

 1934年には、この火葬場の建設をてがけた建築家ドミトリー・オシポフの死体が焼かれ、建物の中に安置された。1973年にはモスクワで、欧州最大のニコロ・アルハンゲリスキー火葬場が開業し、ドンスコイ火葬場は正式に閉鎖された。1984年までの10年間は、ソ連共産党幹部の遺体のみを火葬。ソ連崩壊後の1992年に、建物は教会に返還された。煙突は取り壊され、正教会の勤行が再開された。

 現在は、一時的に壁がつくられて、ソ連時代に建てられた脇屋から教会を隔てている。脇屋には、7千以上の遺灰が置かれている。この遺灰が置かれた壁龕は、教会を革命前の状態に戻すことを妨げているのだ。

 多くの遺灰の壷は今や「無縁仏」となっているが、親族がここにこういう形で葬られているモスクワ市民の大半は、遺灰を新しい遺灰置き場に移すことに断固反対している。多くの壷と壁龕は、悲惨な状態にあるので、改葬すればそれらは完全に破壊されてしまうだろうという。

 「私はこういう状況に憤慨している」。ロシアの有名な俳優アレクサンドル・シルヴィンドは2012年に述べている。「火葬場には、私の両親と姉の遺灰が置かれているのだから」

 2019年現在、こうした状況はまだ続いている。結婚式、葬儀、そして洗礼がこの教会で行われているが、ソビエト市民の大量の遺灰がすぐ近くある…。