雪積もるアウシュヴィッツ

B.ボリソフ撮影/タス通信

B.ボリソフ撮影/タス通信

1945年1月27日、ヴィスワ・オーデル攻勢にて、I.S.コーネフ元帥の第1ウクライナ戦線第59軍および第60軍、I.E.ペトロフ上級大将の第4ウクライナ戦線第38軍は、アウシュヴィッツ地域を解放した。戦争で多くの友人や仲間の死を目の当たりにし、死を見慣れたはずのソ連兵にとっても、アウシュヴィッツは衝撃的であった。

 アウシュヴィッツは唯一の複合施設ではなかった。アウシュヴィッツ強制収容所は5ヶ所の収容所と刑務所で構成されていたが、ドンブロウスキ炭田の半径20~30キロメートル以内には、他にも強制収容所の支所が18ヶ所あり、それぞれに囚人200~300人を収容可能なバラックが80ヶ所あった。

 地元住人によると、アウシュヴィッツ強制収容所の建設が始まったのは1940年。収容所が存在していた間、純粋なアーリア人ではない、多数のユダヤ人や他の人々が、次々にここに収容され、殺された。

 死者の体は動物のように”活用”され、毛はナチスドイツ潜水艦乗組員の枕の充填物になり、皮膚は手袋になり、脂肪は石けんになった。また金歯や人工歯冠も抜かれた。生きている人は、ナチスドイツの外科医の練習台、薬剤師の実験台になった。

 50~100人を各車両にのせた40~50両編成の列車10台が毎日、ヨーロッパ各地からここに到着した。初日を生き延びた人は、到着した人の10~30%のみ。 現在の複数の歴史学者の推計によると、アウシュヴィッツの死者数はユダヤ人110万人、ポーランド人14~15万人、ロシア人10万人、ジプシー2万3000人。

 

グリシャエフ少将の証言 

 ソ連軍による収容所突入前に、遺体の焼却炉は破壊された。ソ連軍が解放できたのは、わずか7600人であった。第1ウクライナ戦線はこの冬、2万6000人の兵士を失ったが、アウシュヴィッツ奪取の戦いだけで2万3400~3万5000人の兵士を失っている。

 収容所の存在に関する軍の最初の証拠は、1月26日付けの報告書。第60軍政治部の部長であるグリシャエフ少将は、第1ウクライナ戦線政治局の局長であるヤシェチキン少将にこう書いている。

 「フシャヌフ南西のレビオンシュ駅で、アウシュヴィッツ強制収容所の支所を見つけた。生存囚人の中にはユダヤ人30人の他、ハンガリー人、フランス人、チェコ人、ポーランド人、ロシア人がいた。炭鉱の中に隠れることができた人々である。残りはドイツ人によって殺害されている。ユダヤ人のレヴェルという人は、レビオンシュに来るまでアウシュヴィッツにいたと話した。そこには、ヨーロッパの多くの国から連れてこられたユダヤ人が、同時に2万5000~3万人いた。連行は4年間途切れることなく行われていた。女性、高齢者、子供、病人などの働くことのできない人は、健康な男性とわけられ、すぐに殺害された。収容所南側のバラックに収容され、服を脱がされ、特別なガス室で殺害され、その遺体は火葬場で焼かれた。ここ2年は、男性囚人も殺害されていた。囚人には、1日1回、水っぽいスープと150~200グラムのパンが与えられるだけであった。1944年10月から特に、火葬炉は24時間稼働になっていた。 1944年12月、火葬炉はドイツ人によって爆破された」

 囚人の一部は戦いの混乱を利用して、周辺に逃れた。ソ連赤軍はアウシュヴィッツに続く道ですでに、囚人のグループに遭遇し始めていた。収容所内に入るとまず、野外料理をつくって生き残った人々に食べさせた。