オリガ・スペシフツェワ死す

オリガ・スペシフツェワ

オリガ・スペシフツェワ

1991年の今日、9月16日に、名プリマ、オリガ・スペシフツェワが亡命先のニューヨーク州で亡くなった。

 オリガ・スペシフツェワは、タマーラ・カルサヴィナ、アンナ・パヴロワとともに、20世紀初頭の三大バレリーナと謳われた。「バレエ・リュス」の創設者セルゲイ・ディアギレフは、パヴロワよりも高く評価していたという。ジゼルのような、どこか無防備で運命に翻弄される役を得意としたが、その実人生も、それを地で行く心理葛藤のドラマとなった。

 

ニジンスキーの相手役として 

 オリガ・スペシフツェワは、1895年にロシア南部のロストフ・ナ・ドヌで、劇場の俳優の娘とした生まれた。しかし、その父が、オリガが6歳のときに結核で亡くなり、母は、6人の子供を抱えて困窮した。

 結局、オリガを含む、上の子供3人を、俳優の遺児を受け入れていた寄宿学校に預けることになる。子供たちはやがて帝室バレエ学校に入学する。

 1913年に卒業すると同時に、マリインスキー劇場に入団。デビューは、「ライモンダ」の端役だったが、早くも、バレエ・リュスの創設者の一人である名振付師ミハイル・フォーキンに注目される。

 翌年から、バレエ・リュスの米国公演に参加し、ニジンスキーの相手役として、「薔薇の精」、「シルフィード」を踊り、大好評を博する。

 1920年からは、マリインスキーでもプリマとなった。ロシア革命、内戦のさなかも、彼女は、アグリッピナ・ワガノワの指導のもと、研鑽に励んだ。

 

重圧のなかで精神病に 

 しかし、戦乱と飢餓のペトログラードは彼女の健康を蝕み、結核にかかる。舞台に復帰できたのは、21年5月のことだった。

 内縁の夫(バレエ評論家アキム・ヴォルィンスキー)ともうまくいかなくなり、十月革命後に離婚し、やがて、チェーカー(秘密警察)の幹部と結婚する。その夫の手引きで、23年に母とともにフランスに亡命。

 以後、39年まで欧州各地で活躍するが、亡命先生活、つのる望郷の念、それに母が単独でソ連に帰国してしまったことなどが重なって、精神病の兆候が現れる。母親との関係も、いろいろ問題があったようで、オリガの美貌に嫉妬していたという話もある。

 オリガ自身、神経質なところがあり、オリガと踊ったセルジュ・リファール(ウクライナ出身のフランスの名ダンサーで振付師)は、「彼女はいつも夢と現の境に生きていた」と回想している。

 

20年間の記憶喪失から回復 

 1939年に、最後の舞台をパリで務めると、欧州の戦乱を避けて米国に渡る。43年には、記憶喪失が甚だしくなり、この年から1963年まで、20年間を精神病院で過ごす。

 幸い、記憶は少しずつ戻り、ついに回復したが、もはや年齢的に舞台に立つことはかなわなかった。

 最晩年は、作家レフ・トルストイの四女アレクサンドラがニューヨーク州に設立したペンションで過ごした。二人はとくに馬が合ったという。