レーニンの生活の裏面:母親の財布頼りとセックスレス

歴史
エカテリーナ・シネリシチコワ
 ソ連の建国者、ウラジーミル・レーニンの個人生活は、一般人はおろか党の同志にもほとんど知られていなかった。彼は、保養地へ行くために、母親に財布をはたかせて最後の金をせびることがあった。女性が好きだったが、彼女らに性欲をもつ権利があるとは考えなかった。

 ウラジーミル・レーニンは、ロシアの、1905年第一次革命に続く第二の革命、すなわち十月社会主義革命の立役者だ。一般大衆における彼のイメージは、生前は大したものであったし、いまだにそれが多少は残っている。レーニンは「首領」、「慧眼な天才」、愛情深い「祖父」などと呼ばれた。

 だが、そうした理想化された歴史的イメージは、彼の親族や友人が目の当たりにしたところからはかけ離れていた。当時、いったい誰がそのことに思い至っただろうか。率直に言って、今日では、レーニンのような人物については、完全な親がかりで、多くの女性と同時に関係するのを好んだ、と言われるだろう。

「お願いします。お金を送ってください。すっかりなくなりかかっているので」

 「家族全員が母の年金だけで暮らしていたし、おまけに父の遺産も少しずつ食いつぶしていた」。1886年に姉のアンナ・ウリヤノワは書いている

 レーニンの家族は決して裕福であったためしはなかった。おまけに、彼の父は早く亡くなったので、母マリア・ウリヤノワが6人の子供からなる大家族を支えねばならなかった。

 ウリヤノフ家の子供たちはすべて、けっこうな年齢になるまで働かなかったので、いよいよ状況は難しくなった。彼らは皆、革命家の道を選んだ。(亡命した)レーニンを除いて全員がロシアの刑務所で服役していたこともあった。

 レーニンは40歳になるまで、自分の収入はほとんどなく、母親のお金で暮らしていた。ところがこの間の17年間は亡命生活を送っており、スイス、パリ、ドイツ…と転々とした。

 スイスでは、サナトリウムに住み、そこで健康を回復した。「私はもう数日間、このリゾートに住んでいて、気分は悪くありません。でも、ここの生活は非常に高くつきます。治療すると、さらに金がかかるので、もう予算を超えてしまいました。…もし可能ならば、さらに100ルーブル私に送ってください」。レーニンは1895年7月に母にこう書いている。

 3週間後、彼はベルリンに去ったが、そこからまた速達を母に出した。「ゾッとしますが、私はまた懐具合に『不如意』を感じています。つまり、本を買いたい等の『誘惑』がすごく大きいので、お金があっという間にどこかへ消えてしまうのです。…できたら、私に50~100ルーブル送ってください」。母はいつもお金を送ってやった。

息子のために家を売る

 当然だが、マリア・ウリヤノワは、子供全員を年金だけで養うことはできなかった(もっとも、彼女は月額100ルーブルを受け取っており、当時としては相当な金額だった)。

 ところが、亡命先の革命家の息子とその妻にして同志であるナジェージダ・クルプスカヤは、召使を雇うことさえやめなかった。召使を毎日2時間ずつ自宅に呼んだのである。夫妻はしばしばカフェにも行った。クルプスカヤ自身、自分は「辛子しか料理できない」(要するに何も料理できない)と自認していた。

 その結果、レーニンの母は、ウリヤノフ家の領地と、夫の遺産で買った家を売却した。そうして得た金のほとんどは、家族の借金を返済するのに使われた。そして、残額で彼女は、銀行口座を開いたのだが、一家はおそらくその利息で暮らしていた。母親あてのほとんどすべての手紙で、「家族資金」について言及されている。

三人の愛:男+女+女

 概して、レーニンの個人生活においては女性が主な役割を果たしていた。友人たちとの関係はまったくうまくいかなかった。「彼の同志は皆、レーニンが他の者とは違い、ちょっと変わっていると知っていた」。歴史家でレーニンの研究家、レフ・ダニルキンはこう述べている。「レーニンには友だちはいなかったと言っていい」と、ダニルキンは簡潔に言う。

 クルプスカヤは、レーニンの傍に終生いた唯一のパートナーだった。二人が出会ったのは、マルクス主義者の会合だ。この会合は、パンケーキ付きのお茶会を装っていた。それ以来レーニンは、毎週日曜日に、彼女の家の昼食にやってきた。が、その一方で、労働者の学校で教えている他の女子学生たちのところへ行くのを止めなかった。

 クルプスカヤは、自分の意志で、シベリア流刑になったレーニンの後を追い、そこで二人は結婚した。しかし、彼女の手紙から判断すると、夫妻の性生活はシベリアで終わったようだ。「毎晩、我々は、時間をどうやってつぶしたものか分からなかった。寒い不快な部屋にいるのはまっぴらだったので、映画館や劇場へ通ったものだ」

 こうした状況がいくら変でも、それ以後クルプスカヤは、レーニンにとってさらに近しい存在になった。レーニンは女性の性欲を認めなかった(彼は、ロシアの性革命を起こした一人だったが)。あるとき彼は、こんなことを言ったことさえあった。女性は性的解放を目指すことなどできない。なぜなら、女性たちは「この問題について深く多様な知識」を持っていないから、と。

 しかし、こうしたレーニンの考えは、彼がパリで愛人をつくる邪魔にはならなかった。愛人とは「ボリシェヴィキの情熱的な女性」、イネッサ・アルマンドだ。にもかかわらず、レーニンは断じて「本妻」のクルプスカヤを捨てることは拒んだ。二人の女は友人になり、間もなく三人はいっしょに住み始めた。もちろん、大っぴらにではないが。

 マルクス主義の同志たちが三人の関係に気づいたのは、三人が話すときに「あなた」ではなく「君、僕」を使うようになったときだ。レーニンは誰に対しても「あなた」を使っていたので、たいへん珍しかった。

 イネッサは1920年に亡くなる。レーニンは彼女の死に衝撃を受け、その3年後の24年1月に死去している。クルプスカヤは、夫の遺体をイネッサのと合葬するよう請願したが、却下された。