アエロフロートで飛ぼう!かつて世界最大だった航空会社はどのように乗客を魅了したか(写真特集)

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 アエロフロートはもっともよく知られるソ連(そして今はロシア)のブランドのひとつである。当時、ソ連でどのように宣伝されていたか紹介しよう。

 アエロフロートはロシア内戦の終戦直後の1923年に設立された。当初はアエロフロートではなく、良い飛行を意味する“ドブロリョート”と名付けられていた。現在の名称に改称されたのは1930年代初頭であった。 

 アエロフロートの最初の国際線はドイツのケーニヒスベルグ(現在のカリーニングラード)向けで、最初の国内定期便の発着都市はニジニ・ノヴゴロド(モスクワの南東400キロ)であった。

「アエロフロート、それは時間の贈り物」

 当時、ソ連のパイロットたちはドイツのユンカースF13を操縦していた。

 しかしながら、1930年代初頭からは最初のソ連製の航空機ANT9K5なども使用されていた。そして同じ時期にモスクワに最初の旅客用の空港もオープンした。この空港は世界最大規模で、現在の地下鉄駅「アエロポルト(空港)」の近くに位置していた。

 アエロフロートに最初のキャビンアテンダントが登場したのは1939年。しかし当時はいまとは違い、直訳するところの「ディナーレディ」と呼ばれていた。

「アエロフロートは利益をもたらす」

 当時、この「ディナーレディ」になるには厳しい条件があった。身長は162センチ以下、体重は52キロ以下でなければならなかった。

「得られるのは時間。列車だと1日、飛行機だと1時間」

 アエロフロートは第二次世界大戦後、急速に成長した。 

「アエロフロートの翼で祖国を旅しよう」

 モスクワのヴヌコヴォ空港は当時のソ連における最大のハブ空港となった。1956年、アエロフロートは世界で初めて旅客ジェット機ツポレフ104を導入した。

  1950年代終盤、アエロフロートは世界最大の旅客機ツポレフ114を導入し、記録を打ち立てた。のちに、この飛行機はもうひとつのトレードマークとなるイリューシン62に機材変更された。

 1960年、アエロフロートの広報部が開設された。その頃に作られたのが「アエロフロートで飛ぼう!」という人気のスローガン。

 ソ連にはそれ以外の航空会社がなく、どんなに望んでも他の航空便に乗ることはできないという当時の状況については多くのジョークがあった。しかしこのコピーは、アエロフロートの一番の競争相手であった列車に乗らずに、飛行機を使うよう人々に訴えかけるものであった。

 ソ連のアエロフロートは使用機材が非常に多かった。「ククルーズニク(トウモロコシ男)」の愛称で親しまれたAn-2から超音速輸送機のツポレフ144  (世界初の超音速旅客機であった)まで2,000機以上の飛行機を所有していた。ソ連崩壊直前の主要な航空機はツポレフ154であった。

 1980年、アエロフロートはモスクワ夏季五輪の際の公式キャリアであった。アエロフロートはハリウッド映画の「2001年宇宙の旅」やロシア・イタリア合作の「ロシアにおけるイタリア人たちの信じられない冒険」など、世界の映画を多数、用意した。

 1980年、アエロフロートは世界全大陸に就航し、年間12,000万人の乗客を運んだ。この記録はギネスブックに登録され、現在も塗り替えられていない。まさに世界最大の航空会社であった。

 アエロフロートはモスクワ~ラバト~ハヴァナ~リマ~サンチアゴという総距離18,000キロに及ぶ世界最長のルートを飛行していた。

「アエロフロート。飛行機で空を飛ぼう」

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