ロシア史上の嫌われ者5人

アレクサンドル・キスロフ
 彼らは、いついかなるときも人気投票で勝つことはあるまい…。

1.「呪われたスヴャトポルク」(キエフ大公国の大公、980~1019)

呪われたスヴャトポルク。V.シェレメチェフ作。1867年。

 キエフ・ルーシ(現代ロシアの源流となった中世国家)の大公たちは、善人だったか、悪人だったか?それを判断するのは難しい。何世紀も経ってから書かれた年代記からは、ほとんど分からない。しかし、キエフ・ルーシにキリスト教を導入したウラジーミル1世(聖公)の息子、スヴャトポルクは、明らかに最悪の評判の持ち主だった。何しろそのあだ名「呪われたスヴャトポルク」がそのことを物語る。

 年代記によれば、スヴャトポルクは、権力を奪うために、後に列聖されることになる異母弟ボリスとグレブを殺したことで悪名高かった。彼は暫時、1015〜1019年の間に、断続的にキエフ大公の地位に就き、スラヴ世界で最も重要な都市キエフを治めた。その後、もう一人の異母弟ヤロスラフ(「賢公」と呼ばれたように評判が良かった)がスヴャトポルクを追い払った。スヴャトポルクは、落ち延びた先で病没した。 

2.マリュータ・スクラートフ(1541~1573)

イワン雷帝とマリュータ・スクラートフ。グリゴリー・セドフ作(1836-1884)。

 イワン雷帝(4世)の親衛隊(オプリーチニキ)の隊長、マリュータ・スクラートフは、雷帝に輪をかけて冷酷だった。 雷帝の弾圧的な政策を祝福することを拒んだモスクワ府主教フィリップ2世を扼殺した。後にフィリップが列聖されたこともあり、マリュータの名は地に落ちた。

 マリュータはこれ以外にも数々の悪行を重ねている。例えば、ツァーリのために「レイプ・ツアー」を組織した。作家・歴史家ニコライ・カラムジンは次のように書いている

「1568年7月…イワンに最も忠実な男たちが、マリュータに率いられて、モスクワ周辺の美しい人妻たちを拉致して、村へ連行した。そこでツァーリは、自分用に何人かの女を選び、幾人かは寵臣たちに与えた。…多くの女が恥と悲しみのあまり死んだ。

 マリュータは、他の親衛隊員ら(オプリーチニキ)とともに、数千人を殺害した。ロシア史には、暴虐な弾圧を行った者が少なくないが、この男は飛び抜けて酷い。

3. サルトゥイチハ(1730~1801)

サルトゥイチハというあだ名で知られているダリヤ・ニコラエヴナ・サルトゥイコヴァ。

 あなたは女性は残酷であり得ないと思うだろうか?貴族のダリヤ・サルトゥイコワ伯爵夫人(サルトゥイチハはあだ名)に向かってそう言ってみてはどうか。彼女は、何の理由もなく、自分の農奴たちを次々に拷問し殺害していった。

 18世紀の基準に照らしても、これはあまりに酷すぎた。地主が農奴を殺すことは許されなかった。そのため、女帝エカテリーナ2世は、 サルトゥイコワのサディスティックな快楽を入念に調査したうえで、1762年に投獄した(サルトゥイコワは当時32歳だった)。この恐るべき貴族は、残りの人生を牢獄で過ごした。

4. ニコライ・エジョフ(1895~1940)

 多くのロシア人は、いまだに独裁者ヨシフ・スターリンを好んでいる――彼の体制が、「大粛清」の間に少なくとも70万人(控えめな説)を殺したにもかかわらず。彼の最も不吉な側近の一人、ニコライ・エジョフは、1936年~1938年に、ソ連の秘密警察「内務人民委員部(NKVD)」を率いていたが、彼自身幸運ではなかった。その名は流血にのみ結びついている。

 エジョフは、イワン雷帝のもとのマリュータ・スクラートフを思わせる。スターリンの命令により、エジョフは1937年の「大粛清」を組織した。これは、スターリンの弾圧的政策のピークだった。人々は撃たれ、投獄され、強制収容所に送られ、過酷な労働に従事させられ、しばしば命を落とした。エジョフはこれを担当していた。人々は後にこの時期を「エジョフシチナ」(エジョフ時代、エジョフ体制)と呼ぶことになる。

 公式のメディアは彼を「鉄のコミッサール(人民委員)」と称したが、後には彼は「血まみれの小人」と呼ばれた(彼の身長は約150cmだった)。スターリンに極めて忠実であったが、独裁者の側近中の側近だったはずのエジョフは急転直下、転落することになる。1938年に彼はスターリンにより解任され、1940年、裁判にかけられ死刑判決を受け、NKVDの後任たちにより銃殺刑に処せられた。

5. アンドレイ・ヴラソフ(1901~1946)

アンドレイ・ヴラソフ将軍。 複写物。1941年。

 ソ連軍の将軍だったアンドレイ・ヴラソフは第二次世界大戦中に、「ロシアを共産主義から解放する」という名目で、ヒトラー支持にまわった。この動きは、まさしくソ連の逆鱗に触れた。ロシア戦略研究所のレオニード・レシェトニコフ所長は、「ソ連国民にとって、ヴラソフは、裏切りの象徴、いわば現代のユダとなった」と述べている。こうした受け取られ方は、今日にいたるまであまり変わっていない。

 ヴラソフはソ連軍で目覚ましいキャリアを築いていた。彼の軍歴は内戦時に始まる。中国の軍事顧問となり、1940年に少将に昇進。大祖国戦争(独ソ戦)が勃発すると、とくにモスクワの戦い(1941年)では勇戦した。しかし、1942年に彼はドイツ軍の捕虜となる。

 そして彼はナチの提案に同意した。それは、捕虜となったソ連兵で編成した部隊を率い、同胞と戦うことだった。ヴラソフは公開書簡で、「ボリシェヴィキが祖国を装っている」と説明し、ロシア人はドイツ人とともにボリシェヴィキと戦うべきだと述べた。彼が率いたいわゆる「ロシア解放軍」は、ソ連軍と戦ったが、結局、ソ連当局は、ヴラソフを反逆罪で絞首刑に処した。

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