自由への長い道のり

『取引』、ニコライ・ネヴレヴ=

『取引』、ニコライ・ネヴレヴ=

トレチャコフ美術館
 パーヴェル1世は今から220年前の1797年、貴族、領主層に対し、彼らの所有する農奴らの労働を制限し、週3日以上の賦役を禁じるとの政令を発布した。これが現在ではアメリカにおける黒人奴隷とも比較される2,300万人もの農奴解放に向けた小さな一歩であった。

 

 パーヴェル1世は今から220年前の1797年、貴族、領主層に対し、彼らの所有する農奴らの労働を制限し、週3日以上の賦役を禁じるとの政令を発布した。これが現在ではアメリカにおける黒人奴隷とも比較される2,300万人もの農奴解放に向けた小さな一歩であった。

『取引』、ニコライ・ネヴレヴ=トレチャコフ美術館『取引』、ニコライ・ネヴレヴ=トレチャコフ美術館

 「ロシア史講話」の著者、ワシリー・クリュチェフスキーは、18世紀末のロシアの農民の地位について、「ロシアの村は北米におけるアンクル・トム時代の黒人たちのプランテーションと化した」と表現した。このころ、ロシアは農奴制の全盛期で、農民たちは領主たちの所有する土地に法的に「しばりつけられ」、その運命は領主たちに完全に支配された。

 

「人々を土地に緊縛する」

 ロシアでは16世紀の末から17世紀の半ばにかけて農奴制が確立された。それまで領主たちの下で働いていた農民たちは本人の意思に基づいて、両者の間で合意された日に別の領地に移る権利を有していた。しかし1649年に導入されたロシア帝国の最初の法典である包括的な会議法典によって、この移動の権利は完全に奪われることとなった。

モスクワのクレムリン、アポリナリー・ヴァスネツォフ=モスクワ歴史博物館モスクワのクレムリン、アポリナリー・ヴァスネツォフ=モスクワ歴史博物館

 ロシア国民経済国家公務アカデミー・社会科学研究所の主任研究者である歴史家のアレクサンドル・プィシコフ氏は、「国家は人々を土地に緊縛しておく必要があった」と指摘する。ロシアNOWの取材でプィシコフ氏はこれについて、移動が許されていたとき、農民たちは領主や国家から遠く離れた到達困難な土地へと逃亡したからだと説明する。そしてその結果、17世紀には農奴制はロシアの有力者たちにとって都合が良いものとなった。

 

他人のための人生

 農奴は領主が与えた土地で生活し、労働する代わりに、賦役を行い、年貢を支払った。賦役は1週間のうち決められた日に領主のために土地を耕し、“ジャガイモを掘る”というもの、一方の年貢は労働のやり方は自由である代わりに収穫された農作物の一部または小作料を定められた期間に領主に手渡すというものであった。

『滞納金の集金』アレクサンドル・クラスノセルスキイ、1869年『滞納金の集金』アレクサンドル・クラスノセルスキイ、1869年

 18世紀に入ると農奴制は継続されたばかりかむしろさらに強化された。ピョートル1世(1682-1725年)の時代には農奴たちの売買や譲渡が一般的なものとなり、ピョートル自身もアレクサンドル・メンシコフ公におよそ10万人の逃亡農民を与えた。またエカテリーナ2世(1762-1796年)の時代になると、貴族たちには農民たちに懲罰を与える権利が与えられるようになり、農奴をシベリア送りにすることもできた。

 

運によっては

 ロシアのすべての農民が農奴であったわけではない。農民の一部は領主ではなく、国家や宮廷のために働いた。また例えばシベリアや北方などの特別な地域では農奴制というものはなく、農民は自由であった。しかし18世紀末になると農奴の数は急増した。租税記録によれば、農奴の割合は国民全体の50%、4,000万人にものぼった

 農奴の生活は領主に左右された。悲劇的な事件もあった。残虐な領主として知られるダリア・サルティコワは38人以上の農奴を不当に扱い、死亡させたのである。(法的には農奴を殺害する権利は貴族に与えられていなかった)。1762年にサルティコワは収監されたが、農奴を殴打したり、傷つけたりする領主は彼女ひとりではなかった。領主たちにとって農奴はなんの権利も持たない存在だったのである。

農奴の体罰=ロシア通信農奴の体罰=ロシア通信

 しかしロシアの農奴をアメリカの奴隷と比較するクリュチェフスキーの意見について、歴史家のアレクサンドル・プィシコフ氏は、それは誇張であると反論し、「もちろん、農奴たちの暮らしは苦しいものだった。しかしそこまで物のように扱われていたわけではない。彼らには生活し、常に自分のためではないにしろ、労働できる土地があった」と述べている。また領主の中には農奴に同情する者もあり、教育を与え、自由を与えることもあった。

 

困難な改革の試み

 パーヴェル1世は1797年に賦役を週3日に制限するという政令を発布し、農奴制を緩和した。その政令は農奴たちを日曜日に労働させることを禁じ、日曜日を除く1週間を半分に分け、3日間を領主のために、残りの3日間を自分たちのために働くというものであった。

農夫、ニコライ・ヤロシェンコ、1880年農夫、ニコライ・ヤロシェンコ、1880年

 アレクサンドル・プィシコフ氏は、パーヴェル1世の政令は皇帝が初めて農奴に対する領主たちの権限を制限しようとしたものとしては重要な意味を持つものだと認めつつ、違反に対する罰則が定められていなかったため、遵守する者が少なかった点を指摘する。

 その後のロシアの皇帝たちの発案は象徴的な意味を持つものであった。アレクサンドル1世による「自由な耕作者に関する勅令」(1803年)は領主たちに農奴を解放する権利を与えるものであったが、その権利を喜んで行使する領主はおらず、この勅令が効力を失うまでに自由を手にした農奴は全体のわずか1.5%であった。

 

転換のとき

 プィシコフ氏はロシアが他のヨーロッパの大国よりも遅い1861年まで農奴制を維持していた点を指摘し、ロシアの皇帝たちは自らの農奴を所有し現状の変更を望まなかったエリート貴族層に頼ることに慣れていたと指摘する。国家は貴族の不満を買い、自分たちの特権を奪われるのを恐れたのである。

 すべてを大きく変えたのはロシアがイギリスとフランスに大敗を喫したクリミア戦争である(1853-1856年)。歴史家のアレクサンドル・オルロフ氏は敗戦の原因について、「経済に関するものがその原因の一つであり、農業中心で半封建制が残っていたロシアの産業が、産業革命の起こったヨーロッパ諸国に遅れをとっていたことによる」と指摘する。この敗戦で、近代化の必要性、そして国民の不満は誰の目にも明らかなものとなった。1855年に即位したアレクサンドル2世は「農奴制の廃止は、下からではなく、上から(国家の命によって)起こる方がよい」と述べた。

 

すぐには与えられなかった自由

 長期にわたる準備の後、改革は実行された。1861年、アレクサンドル2世が農奴解放令を発布したのである。解放された農奴の数は2,300万人にのぼったが、これは国の人口の34%に相当した。

『農奴解放令の布告を聞く農民たち』、ボリス・クストーディエフ、1907年『農奴解放令の布告を聞く農民たち』、ボリス・クストーディエフ、1907年

 しかし実際には農民たちは従属状態のままであった。彼らが住んでいた土地は領主の所有物であり、土地を取り戻すためには買い戻し金を支払うか、分与地を奪われて街に働きに出なければならなかったのである。

 改革は農民の間に大きな不満を呼び起こし、農奴解放令の発布後には暴動が多発した。多くの農民が皇帝は土地とともに「真に」農奴を解放したものの領主たちが国民に対して真実を隠していると信じていたのである。農民たちはそれから実に45年間、1905年の革命後に国民たちの怒りを受けて政府が買い戻し金の支払いを廃止するまで、買い戻し金を支払い続けた。

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