映画「三人の女性」に演じるゾーヤ・フョードロワ
Sputnik第二次世界大戦末期の1945年1月、スターリン治下のモスクワで、常ならぬ状況で、ソ連の映画スター、ゾーヤ・フョードロワとアメリカ海軍軍人ジャクソン・テイト(後に少将)が出会った。彼は、軍事使節の一員として訪ソしていた。
若者たちは、ソ連外務省のレセプションで互いを見るや一目ぼれした。テイトはまた会おうと言ったが、それが彼女にどんな危険を及ぼし得るか、知る由もなかった。ソ連市民にとって外国人との交流は、投獄される危険にさらされることだった。
しかし、ゾーヤは考えた。テイトは素晴らしい人だし、アメリカはこの戦争でソ連の同盟国だったんだから、と。それで彼女は危険を冒すことにした。
ゾーヤは、不幸な結婚の後で、ハンサムなテイトと出会い、心身ともにまさに蘇ったかのようだった。しかし彼が驚いたことには、デートでは決して軍服を着ず、始終黙っているように、彼女は頼んだ――彼がアメリカ人であることが暴露されないように。
こうした秘密のデートは、若者たちの感情をいよいよ高ぶらせるだけだった。恋人たちはいっしょに暮らす計画を立てていた。
ゾーヤ・フョードロワ
オーリガ・エフゲニェヴナ・シトワ=ベラヤのアーカイブ5月8日から9日にかけての夜、ゾーヤはテイトに、今日は必ず妊娠する予感がすると言った。二人は、戦勝を記念して、男の子ならヴィクトル(ヴィクター)、女の子ならヴィクトリアと名づけることに決めた。
あの過酷なスターリン時代でさえ、若者たちにはロマンスを続けるチャンスが多少はあった。だが、スターリンの取り巻きのなかでも最も恐ろしい人物、ラヴレンチー・ベリヤが介入してくる。 彼は大粛清の主な組織者として、また大変な女好きとして知られていた。
1941年、大祖国戦争(独ソ戦)勃発の前夜に、ゾーヤはベリヤに、父を助けてくれと頼まざるを得なかったことがあった。彼女の父は、思想的には革命的共産主義者であったが、スターリンについての不用意な発言で逮捕されていた。
娘の美貌に魅了されたベリヤは、彼女の父を釈放した。その後ベリヤは、自分の妻の誕生日の祝いにゾーヤを招いた(これは、自分に“サービス料”を支払わなければならないことを仄めかすものだった)。ところが若い女優は、ベリヤ宅に来ると、だまされたと分かり(ベリヤの妻は在宅でさえなかった)、彼を手厳しくはねのけた。彼は怒り狂い、彼女を家から追い出した。
ベリヤがゾーヤに直ちに報復しなかったのは、明らかに戦争勃発に気をとられたからだ。だが、後で分かったように、彼は彼女を忘れず、その生活を監視し続けた。そして、1945年5月9日、戦勝の直後、ゾーヤは思いがけず、黒海沿岸での公演に送り出され、負傷した兵士たちを前に出演する。その間にテイトはさっさとソ連から追放されてしまった。そのため彼は、ゾーヤが赤ん坊について予感していたことが実現したことを知る由もなかった。
前線で上演しているゾーヤ・フョードロワ、1943年
Archive photo秘密警察「内務人民委員部(NKVD)」(KGBの前身)は、いち早くゾーヤの妊娠を察知し、産院でも彼女を監視し続けた。そのときようやく彼女は悟った。たぶん、ベリヤが「落とし前」をつけようとしているのだと。
不運な恋人テイトは、米国からゾーヤに何通も手紙を書いたが、彼女は一通も受け取らなかった。もちろん、自分から彼に書くことなどできなかった。あるときテイトは、もうゾーヤを煩わさないでくれという匿名の手紙を受け取った。おそらくそれは、NKVDからの手紙だったろう。
幼いヴィクトリアがまだ1歳にもならないとき、彼女の母親、つまりゾーヤは逮捕された。尋問に際し、彼女は、テイトがスパイであると告げられた。そして彼女は、彼を助け、情報を渡したのだと。そしてこの女優は、スターリン殺害をもくろむ犯罪グループを組織したと告発され、財産没収および懲役25年の判決を受けた。
ゾーヤ・フョードロワと娘のヴィクトリア
Victoria Fyodorova and Haskel Frankel/Delacorte Press, New York, 1979幼いヴィクトリアを孤児院行き、あるいは死から救ったのは、ゾーヤの姉妹だった。彼女は、カザフスタンに終身流刑となったが、そこでヴィクトリアを自分の娘として育てた。
1953年にスターリンが死ぬと、ゾーヤは名誉回復された。そして非常な辛酸を嘗めてきたにもかかわらず、再び映画に出演し始め、ヴィクトリアを引き取って、自分が本当の母親であることを告げた。
自分が再び投獄されたら娘はどうなるだろうとゾーヤは考え、テイトと連絡を取る方法をを模索し始めた。彼に実は娘がいることを伝えるためだ。
そこへおあつらえ向きに、ゾーヤの友人がホテル「ウクライナ」で働いていた。このホテルには、外国人がしばしば泊まっていた。
その友人は、当時モスクワで通訳として働いていたアメリカ人でコネチカット大学教授のイリーナ・カークに相談するよう勧めた。カークは、内戦後にロシアから逃れた白軍将校の子孫で、子供の頃いつもゾーヤが出ている映画を見ていた。
そのときゾーヤは初めてヴィクトリアに、本当の父親が誰かを話して聞かせた(それ以前には、父はソ連のパイロットで、戦死したと言っていた)。
当時、ヴィクトリアは15歳だったが、彼女は「父なし子」、「人民の敵の娘」というレッテルを貼られて、散々苦しんできていた。それだけに大きな期待に胸をふくらませて、米国の父との出会いを夢見るようになる。
しかし、イリーナが米国で彼を見つけることは容易ではなかった。帰国してからようやく数年後に彼女は、知人を通じてテイトの住所を知ることができた。イリーナが、ヴィクトリアの写真を同封して手紙を彼に送ると、彼は即座にそれが娘であると悟った。
しかし、娘のことを知った後でさえテイトは、ゾーヤに連絡することができなかった。イリーナ自身が、「テイトが見つかった。彼は、ヴィクトリアが自分の娘だとすぐに分かった」と母娘に伝えられたのは、彼女が数年後にソ連を再訪してからの話だ。そのときまでにゾーヤとヴィクトリアは、KGBの“努力”により、テイトに捨てられたと信じ込まされていた。
ヴィクトリアは母と同じように女優になり、映画「愛について」のポスターに載る。
Gorky Film Studioヴィクトリアが父と会う唯一の選択肢は、米国に行くことだったが、ソ連市民が海外に出るには相当な理由が必要だった。
一方、テイト自身はすでに来られる状態ではなかった。病身でもう75歳だったから。おまけにテイトの手紙はいつもヴィクトリアに届いていたわけではないし、すべての電話は盗聴されていた。それどころか、たいていの場合は、つないでさえくれなかった。交換手からただ「ご不在です」と告げられるだけだった。
手の打ちようがない状況であることを知り、ヴィクトリアは米国のジャーナリストたちに訴える。
1975年1月27日、ニューヨーク・タイムズ紙に、「ソ連の“戦争の子供”が米国人の父親に会うことを夢見ている」という長い記事が掲載された。それからしばらくすると、ロサンゼルス・タイムズ紙に、ジャクソン・テイトについての記事が載った。「それはすべて事実で、提督は30年前の話を物語った」
週刊誌「National Enquirer」のヘンリー・グリス記者は、独占記事をものにしようと、ヴィクトリアに連絡を取ってきた。そして、彼女の米国行きを助けることにした。その際、同誌は、滞在費、渡航費、その他の費用を払う義務を負い、その代わり、父娘の再会に関する記事を独占的に載せる権利を得た。
ゾーヤ・フョードロワとヴィクトリア・フョードロワ
Victoria Fyodorova and Haskel Frankel/Delacorte Press, New York, 1979ヴィクトリアと父の再会はとても感動的で、彼女はもうソ連に帰る気がしなくなった。間もなく彼女は、パンアメリカン航空のパイロットと結婚し、米国に留まった。
ゾーヤには年に一回、米国へのビザが支給され、1976年にはついにテイトとの再会を果たした。彼が癌で亡くなる2年前のことだった。
ゾーヤ・フョードロワとヴィクトリア・フョードロワ、彼女の夫と息子
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。