米ソ核戦争の瀬戸際

=タス通信撮影

=タス通信撮影

今から50年前の1962年10月14日、ソ連でカリブ危機、アメリカでキューバ危機と名づけられた、冷戦時代最大の危機が起こった。13日間に渡り、世界は核戦争寸前の状態に追い込まれたが、土壇場でソ連のニキータ・フルシチョフ第一書記とアメリカのジョン・F・ケネディ大統領が合意に達し、戦争はまぬがれた。ロシアNOWは、この危機にいたった経緯を時系列でまとめた。

1. 1959年1月、キューバ革命

革命家のフィデル・カストロが、6年続いたキューバ政府との武装闘争で、ついに勝利する。キューバの独裁者だったフルヘンシオ・バティスタ大統領は国外に逃亡し、カストロは首相に就任。その後すぐに、政変を社会主義革命と規定する声明を出す。

2. 1960年5月7日、ソ連とキューバの友好関係

ソ連はキューバ政府を承認し、外交関係を樹立する。

3. 1961年4月15~19日、ピッグス湾事件

アメリカが援助した在米キューバ人の反革命傭兵軍が、カストロ政権転覆を狙ってキューバに侵攻したが、失敗に終わる。ソ連政府は、キューバに対する攻撃を停止するよう要求する抗議文を、アメリカに送る。

4. 1961年、アメリカによるトルコへのミサイル配備

アメリカはトルコに中距離ミサイルを配備し、ソ連西部に脅威を与える。

5. 1962年夏~秋、秘密作戦

キューバに秘密裏に、ソ連製核ミサイル42基と核爆弾輸送能力のある爆撃機を配備する。この「アナディル作戦」は1962年5月にソ連国防会議で決定されたもの。これにより、共産主義国家のキューバは、アメリカからの攻撃に対処できる防衛手段を獲得し、ソ連は米国本土のすぐ近くにミサイルを配備することできた。

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6. 1962年10月14日、秘密が明らかになる

アメリカの偵察機がキューバ上空からミサイルの発射台を撮影する。

7. 1962年10月16日、危機発生

アメリカのCIAは情報の処理と解析を行った後、ケネディ大統領に画像について報告する。ケネディ大統領は国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)を設置し、リンドン・ジョンソン副大統領、ディーン・ラスク国務長官、ロバート・マクナマラ国防長官、ロバート・ケネディ司法長官などが加わる。委員会は、①ピンポイント攻撃でミサイルを破壊する、②全面的な軍事作戦を展開する、③キューバを封鎖するという、3つの対抗措置を提案。

8. 1962年10月18日、事実を否定

ケネディ大統領は、アンドレイ・グロムイコ・ソ連外務大臣、アナトリー・ドブルイニン駐米ソ連特命全権大使と会談する。だが、ドブルイニン大使はフルシチョフ書記長の計画について何も知らず、グロムイコ大臣はキューバにソ連製ミサイルはないと主張する。

9. 1962年10月22日、ケネディ大統領テレビ演説

ケネディ大統領は、国民にテレビ演説を行い、キューバでソ連製ミサイルが発見され、ソ連に速やかな撤去を求めていること、またキューバを「隔離」することを伝える。隔離という言葉が使われたのは偶然ではなく、封鎖が国際社会で戦争行為として捉えられることを見越していた。

10. 1962年10月24日、両陣営の軍隊は待機状態に

アメリカの軍艦がキューバを包囲する一方で、ソ連およびワルシャワ条約機構の国々の軍隊は、待機状態に。隔離宣言にもかかわらず、この夜、ソ連の「アレクサンドロフスク」号(核弾頭搭載)や他の艦船がキューバの海岸に到着するが、アメリカは攻撃しなかった。フルシチョフ第一書記からの隔離の停止を要求する書簡と、ケネディ大統領からの「思慮分別を求める」書簡が交わされた。

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11. 1962年10月25日、緊急国連安全保障会議

国連史に残る会議が行われる。アメリカのアドレー・スティーブンソン国連大使は、ソ連のワレリアン・ゾリン大使にキューバのミサイル配備に関して回答するよう求め、「通訳を待たずにイエスかノーで答えてほしい」という有名な発言を行った。スティーブンソン大使は、答えを待つことなく、出席者にキューバのミサイルの位置を示した写真を見せる。

12. 1962年10月26日、妥協案

フルシチョフ第一書記がケネディ大統領に書簡を送る。そこには、アメリカがキューバに侵攻しないことを約束するならば、キューバからソ連製ミサイルを撤去するという提案がなされている。書簡は「あなたがたが戦争の結び目をつくったロープの両端を、互いに引くべき時ではない」という言葉で締めくくられている。

13. 1962年10月27日、暗黒の土曜日

キューバのソ連軍が、アメリカの偵察機の1機を地対空ミサイルで撃墜し、そのパイロットが死亡。ギリギリの状況となり、ケネディ大統領は2日後にソ連のミサイル基地を爆撃し、キューバを軍事攻撃するとの決定を行う。核戦争は不可避に見えた。多くのアメリカ人は近々始まるソ連の攻撃から逃れようと、大都市を離れる。

14. 1962年10月28日深夜、決定の夜

ドブルイニン駐米ソ連特命全権大使が、大使公邸でロバート・ケネディ司法長官と会談。ケネディ司法長官は、ソ連政府がキューバからミサイルを撤去すれば、アメリカ政府は封鎖をやめ、キューバを攻撃しないと保証し、さらにアメリカが数カ月以内にトルコに配備したアメリカ製ミサイルを解体する用意があると伝える。フルシチョフの回想によると、この会談こそが妥協の道を開いたという。

15. 1962年10月28日、危機解決

ソ連の指導部は、モスクワ郊外の別荘ノヴォ・オガリョヴォに集まり、キューバからソ連製ミサイルを撤去するという、アメリカの要求を受け入れることを決定。世界の緊張が一気に和らぐ。