1.ソ連でバイクが特に人気を博し始めたのは20世紀半ばだった。当時はソ連経済の特殊性ゆえ車の購入が難しかったのである。だが1970年代までには車も手に入りやすくなり、その結果、成熟した大人は車を選び、若者はバイクを選ぶ、という構図ができた。
2. 1980年代初めには、バイクに乗った若者の姿が街で目立つようになった。彼らが西側のバイカーについて情報を得始めたのもこの時期だったが、ソ連の場合、バイカーが西側によく見られたような犯罪集団を作ることはあまりなかった。しかしながら、西側同様にソ連のバイカーもいくぶんロックやヘビーメタルを好むことがあり、その場合彼らは「ロッカー」と呼ばれた。
3.西側のバイカーとは異なり、ソビエトのバイカーは洒落たバイクを持たず、現地で調達できるものに甘んじなければならなかった。彼らはIZHプラネータやミンスク、ヴォスホードなどのバイクに頼った。これらのバイクの値段は450~750ルーブル(750ドル~1250ドル)で、当時の平均月収の数ヶ月分に相当した。
4.より権威があったのは、東欧、特にチェコスロバキア製のバイクだった。ヤワやCZ(チェスカー・ズブロヨフカ・ストラコニツェ、ソ連ではチェー・ゼットと呼ばれた)のモデルがそれだ。
5.ソビエトのロッカーは、大抵週末の晩に、どこか街に近い公共公園やそれに類する場所に集まった。マクシム・ゴーリキーに因んで名付けられた公園、ルジニキ・スタジアム、「山」(雀が丘のモスクワ大学近くの展望台)がモスクワで最も人気の集合場所だった。「山」には今でもバイカーが集まる。
6.ロッカーは夜間の街でバイクを乗り回すのを好み、警察の厳しい取り締まりの対象となった。ところが、警察のバイクは旧式のものが多く、バイカーに追いつけないこともあった。
7.ソビエトのバイカーは、交通規則を無視する傾向があった。というわけで、ソ連時代のバイク関連の交通事故の統計は衝撃的なものだ。1980年代、バイクの絡む事故は年間7万件あり、うち1万件が死亡事故だった。
8.ロッカーはソ連で大変人気のある一般的な現象で、ロッカーをテーマにした映画も登場したほどだ。その一つが、『アヴァリア:警官の娘』だ。主人公アヴァリア(ロシア語で「事故」の意味)はロッカーのギャングに関わっており、騒動に巻き込まれる。
9. 1990年代までに、モスクワのロッカーはいくつかのクラブに分かれた。「ヘル・ドッグズ」、「ナイト・ウルヴズ」、「コサック・ロシア」などのグループが代表的だ。このうち最初に自分たちのことをバイカーと呼び始めたのは「ナイト・ウルヴズ」で、リーダーは「外科医」の異名を持つアレクサンドル・ザルドスタノフだった。グループは健在で、「外科医」はロシア大統領ウラジーミル・プーチンともいくらかコネがあると豪語している。
10.ソ連崩壊に伴い、バイクにまたがるロッカーは過去のものとなった。後継者らは外国製のバイクを手に入れ、外見も西側の元祖バイカーにより近いものになった。