サーカスの曲芸師のニコライ・ゾボフ、モスクワ、1969年
ユーリイ・リズノフ、アレクサンドル・チュミチョフ/TASS1771年7月1日、ロシア帝国の首都で、最も人気の高い新聞「サンクトペテルブルク報知」(ピョートル大帝が創刊した官報)は、こんなニュースを伝えた。ニジニ・ノヴゴロド(サンクトペテルブルクから約1100㎞)の2人の農民が、この街に2頭の大きな熊を持ち込んで、22種類の様々な曲芸を見せた。その芸のなかには、熊が次のような百態を演じるものが含まれていた。すなわち、法廷の裁判官、鏡を見て男たちから顔を隠す田舎娘、パンケーキ(ブリヌイ)を料理して息子に食べさせる母親、ライフル銃の代わりに棒を持って行進する兵士――。
熊たちはまた、うっかり目に入った火薬を驚くほど器用に爪で取ることもできるし、熊使いの口からタバコを取り上げることもできる。
ルボーク画、18世紀
公有熊はまた誰にも握手するように足を差し出すし、ワインやビールをすすめられると、飲み干して、くれた人に優雅に一礼した。酔っぱらったふりもする。後ろ足で踊る。大した見物だった!
だから熊の見世物の人気は凄まじかった。2人の農民が、ロシア帝国全土で最も読まれた新聞の広告欄を買えたということは、つまり、それだけ彼らはショーで大儲けをしたということだ。
ロシアの歴史家たちは、中世ロシアでは、身分を問わず遊戯が共通していたため、例えば、ツァーリの息子が農民の息子と難なくいっしょに遊べたという点を強調する。これは実際、熊にかかわる遊びには完全に当てはまる。この遊びは、村人も町民も、貴族も貧乏人も楽しんでいた。
ツァーリの宮廷では、高価な熊が特別に世話されており、動物園で飼われていた。庶民が熊の見世物を見る機会は、放浪の熊使いが巡って来たときに訪れた。
しかし、今の動物園のように調教されていない熊を見せても、利益にはならなかった。ロシアにおける熊の調教の伝統は、17世紀以前に、「スコモローフ」と呼ばれる、各地を遍歴する芸人によって形作られた。
生後半年の野生の熊の子を捕らえ、人間の単純な行動をまねるように教え込む。そして、それぞれの行動は、熊が認識する特定の韻や歌を合図に呼び起こされる。だからこそ、見世物の間、熊使いはいつも歌い、韻を踏むのだ。
熊使いはふつう、弦楽器と太鼓の奏者とともに旅した。彼らは見世物の客引きの手伝いをした。熊使いは、夏季におよそ半年間各地を放浪した。彼らの利益を推算してみよう!
スコモローフ、1857年
公有農民のなかには自分で熊を調教したがらず、既に調教済みのものを買う者がいたが、その値段は40ルーブル。ちなみに、若い羊は8ルーブル、地方の代理人は月20ルーブル稼ぎ、帽子の価格は2ルーブルといった物価だった。
スコモローフになるための費用だが、1,5ルーブルは太鼓、3ルーブルは弦楽器、1,5ルーブルは鎖と馬勒、0,80ルーブルは3人の農民のパスポート申請にかかった。これでざっと10年間はスコモローフで稼ぐ準備ができる(10年間というのは、熊が年老いくたびれるまでということ)。
シーズン中、熊使いは約130ルーブルの利益を上げ、衣服代と食費も得る。約25ルーブルは、熊の7ヶ月分の餌代にかかり、他の3人の食費も同様。その結果、熊使いには約70〜80ルーブルしか残らない。さらにそのうち半分は、熊の所有者に支払われ、半分は、弦楽器と太鼓の奏者の間で分けられる。結局、熊使いには7ヶ月の刻苦の報酬として約40ルーブルが残るのみ。それほど多くはないが、農民のやり繰りには十分だった。
しかし、より多くの収入を得る方法もあった。ロシア人は、熊が超自然力を持っていると信じていた。つまり、熊は、農家や納屋から邪悪な霊「ドモヴォイ(家霊、ロシア版座敷わらし)」を追い出せると当時のロシア人は思っていたので、それを利用して稼いだわけだ。
熊使いは、村に来ると、不幸な農民の家を損なうドモヴォイについて、恐ろしい話を散々吹き込む。
するとたちまち、そういう家の主人が熊使いに歩み寄り、自分の家で熊の儀式を行うように頼む。熊が依頼者の家に近づくと、熊使いは、熊の唇の環に結んだ細い糸をそっと引っ張る。すると、哀れな動物は、痛みのせいで、耳を聾せんばかりに吠え、後じさりする。これが回りの見物人には、あたかも熊が悪霊の存在を感じたように見えるわけだ。しめたというわけで、熊使いは突如、峻厳な口調で、家には強力な悪霊がいる、そいつは霊験あらたかな呪文によってしか鎮められない。だが、そのためには、自分と熊に然るべき代価を払わねばならぬ、と厳かに宣言する。金を受け取ると熊使いはゆっくりと熊を落ち着かせ、一目散に熊ととんずらする。安直な霊感商法!
熊使い、カルーガ、1928年
アーカイブ写真幸いにして、熊の見世物を動物の虐待だとして嫌う人たちがいた。1865年に、元将校で宮廷の侍従のピョートル・ジュコフスキーが「ロシア動物保護協会」を設立した。それは、50人ちょうどで構成されていた。彼らは、闘鶏を正式に禁止し、動物ケアセンターを開設した。ここで重要なのは、熊使いも禁止したことだ。
内務省は、熊使いは動物虐待であるのみならず、彼らにほぼ半年間働かないように促し、飲酒と社会寄生虫たることを助長するとの認識を示した。1867年には、熊使いは犯罪と宣言された。が、悲しいことに、禁止されたのはわずか50年ほどにすぎなかった。
熊使いの禁止から6年後、イワン・フィラートフが生まれた。彼は有名なライオンの調教師になり、ロシア各地を彼のサーカスとともに巡業した(ライオンのパフォーマンスは禁止されていなかった)。
熊使いのワレンチン・フィラートフ、モスクワ、1965年
M.ガンチキン/Sputnik彼の息子ワレンチンは、父の仕事を継ぎ、1940年代には、いわゆる「熊のサーカス」というショーを立ち上げた。ソ連はサーカスを人々の娯楽の重要な手段とみなし、これらのショーを奨励した。フィラートフと彼の熊たちはソ連および海外で公演した。熊の悪夢が再現した。しかも、もっと悪いことには、熊はオートバイに乗らなければならなかった。
見物人たちが知らなかったのは、引退した熊の運命だ…。
熊使いのワレンチン・フィラートフ、ニクーリン・モスクワ・サーカス、1969年
ティシェンコ/Sputnik「既に盛りを過ぎた、サーカスや動物園の動物を然るべくリタイアさせる制度は、ロシアにはない。映画スタジオ『モスフィルム』には何らかの『動物避難所』があることはあるが、問題は、これらの避難所に入っても、その後は動物がひき肉になってしまうこと。あるいは、床を覆うカーペットになり果てることだ」。獣医で動物保護活動家のカレン・ダラキヤン氏はこう指摘する。
だから引退した熊は、元調教師の慈悲次第ということになる。もし彼が親切なら、その熊はまともな環境で余生を送れる可能性がある。
ロシア連邦功労芸術家の称号をもつ調教師パーヴェル・クドリャ氏は、そういう手厚い世話をしている一人だ。熊のエゴールとラヤの演目が、サーカスの幹部の命令でレパートリーから外れた後、彼は友人の田舎の農場で、自分で費用を支弁してかつての「茶色の同僚」を飼っている。「ロスゴスツィルク」(サーカスを監督する国の組織)は、そのお役所仕事のせいで、熊が長年にわたりこの業界で働いている事実を認めないからだ。
もっとも、明るい例があることはある。有名な熊のステパン君は、調教師の一家に住んでいて、俳優やモデルとして活躍中。また、ヤロスラヴリ市(モスクワの北250㎞)のマスコットになっている熊のマーシャ嬢は、地元のVIPとして生活を楽しんでいる。
だが、サーカスの動物の引退は、ロシアでは依然として大きな問題だ。実は、動物虐待を取り締まる法律はあるのだが、熊のサーカスは虐待とはみなされない。
とはいえ、2018年6月27日以降、ロシアでは希少動物(絶滅危惧種)(ロシアのレッドデータブックに記載されているか、国際条約によって保護されている動物)を売買することは犯罪となった。だから、ロシアでも、動物に対するより倫理的な扱いに向かってはいる。熊に対しても同様だ。
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