チェルノブイリ原発事故に関する6つの疑問に答える

歴史
オレグ・エゴロフ
 1986年4月26日、プリピャチ市(現在はウクライナ領内)近くのチェルノブイリ原子力発電所で原子炉(4号炉)が爆発し、核分裂による生成物が大気中に大量に放出され、その後何十年にもわたりウクライナ、ロシア、ベラルーシのいくつかの地域の空気と土壌が汚染された 。ここでは、事故とその影響に関する最もよくある質問に、簡単に答える。

1. 事故原因は?

 当時人類史上最悪だった原子力事故の正確な理由は、依然として議論されている。この原子力プラントが4号炉を停止していたとき(プラントのスケジュール通りに)、原子炉内の温度が急激に上昇し、2度の爆発が起こり、原子炉を破壊した。このことは明らかだ。

 しかし、なぜ温度が急上昇したのか?INSAG(IAEA〈国際原子力機関〉の国際原子力安全諮問グループ)の公式報告書にはどう記されているか。1986年に発表された最初のバージョンによれば、原発の運営者とその「規則違反」に事故責任があったとされた。

 ところが1992年の、同グループによる報告「INSAG-7」によれば、「制御棒と安全システムの設計を含む、特定の設計機能に重点を移している」。とすると、チェルノブイリ原発は最初から構造上の欠陥があったことになる。他にも説(地震、テロなど)があるが、信憑性が低いと考えられている。

2. ソ連当局の反応は?

 事故後数日間、ソ連当局は、事故と核汚染の実際の規模については伏せていた。当局がロシア・ビヨンドに語ったところでは、パニックを避けるためだったという。しかし、事故の翌日の4月27日には、チェルノブイリ(ウクライナの首都キエフの北132km)に最も近いプリピャチ市の住民を避難させた。

 5月上旬までに当局は、避難区域をプラントの半径30kmに拡大し、すべての住民を避難させた。事故を起こした、汚染源の原子炉は、さらなる汚染の拡大を防ぐために、特別な「石棺」で覆われた。ソ連各地の60万人以上の人々が、消火、除染、石棺建設などに従事した。

3. 犠牲者、被害者の数は?

 原子炉の爆発そのもので3人が死亡したが、被害ははるかに甚大だった。ソ連の複数の筋によると、4月26日にプラントにいた職員のうち、さらに42人が事故後10年以内に急性放射線症で死亡したので、少なくとも計45人が大惨事の被害者となったのは確実だ。

 全体として、この爆発で、ウランやプルトニウムの同位体、ヨウ素131、セシウム、ストロンチウム90などが、200~1000キロメートルの距離に飛散し、人体の健康に害を及ぼした。

 しかし、被爆して発病、死亡した人の数を正確に突き止めるのは不可能だ。2005年、世界保健機関(WHO)は、チェルノブイリ原発事故による死亡者は4000人にのぼる可能性があると報告した

4. 現在への影響は?

 こうした深刻な汚染にもかかわらず、複数の専門家は、約30年前に起きた大惨事の影響は、現在では大きくないと考えている。最も深刻でまた悲しむべきは、事故発生時に18歳未満だった人々の甲状腺癌の罹患率が高いことだ。2006年のWHO報告によると、放射性ヨウ素で汚染された牛乳を飲んでいたためだろうという。その他の疾病と1986年の原発事故との因果関係はまだ証明されていない。

 タス通信は、原子力安全保障の専門家、ラファエル・アルトゥニャンの意見を伝えている。「甲状腺癌をのぞけば、人々に重大な影響はないし、あり得ない。被ばく量が小さかったからだ。環境への影響について言えば、人間の場合よりもさらに小さい」

 しかし、一部の人々はこれに同意しないようだ。2016年に、ロシア・ビヨンドの記者が、ロシア国内でチェルノブイリに最も近いノヴォズィブコフ(ブリャンスク州)を訪れたとき、癌発症率が全国平均の2.5倍以上もあると聞いている。

5. 現在、チェルノブイリ付近に人は住んでいるか?

 悪名高い4号炉の周辺では、半径30kmの避難区域がいまだにそのまま残っているが、約2000人が住んでいる。彼らは、プリピャチ市や付近の村にあった、荒れ果てた自宅に戻ってきて、厳しい条件のもとで暮らしている。故郷を捨てるよりもそのほうがましだと思ったのだ。避難区域に住む90歳の住民は、2016年にこう言っている。「長生きの秘訣は、たとえ汚染されていても、生まれ故郷を離れないこと」 

6. チェルノブイリに行くことは可能か(また安全か)?

 人々は実際ここに旅行している。ツアーがあるから。放棄され塵埃にまみれたソ連の街の雰囲気を目の当たりにするには、ウクライナに行き、そこで旅行を予約することができる(公式サイトによれば、いちばん安い一日旅行は、1万円弱だ)。とても印象的な旅を味わえるが…。

 「ザ・ゾーン(危険区域)の危険レベルは高くはないが、衣服に関する予防措置の大半が依然として推奨されている」。ロシア・ビヨンドのアントン・パピチ記者は、2年前にチェルノブイリを訪問し、こう書いている。彼(そして他のジャーナリスト)によれば、そこは本当のゴーストタウンだ。そこでは、32年前のまま時間が止まっている。悪名高い爆発が地元民の運命を永遠に変えてしまった、その時点で。