アパートの中の共産主義

コムナルカの特徴の一つである物干ロープ。=Max Sher from the book «East»/Anzenberger/FOTODOM.RU

コムナルカの特徴の一つである物干ロープ。=Max Sher from the book «East»/Anzenberger/FOTODOM.RU

共同住宅「コムナルカ」では、赤の他人が一つの大家族のように共同生活を送り、そこから何世代もの特異なソ連人――連邦崩壊後はロシア人――を生み出してきた。人目を気にせず大っぴらに生活する習慣、権利と義務を平均化したがる志向、密告、無私の助け合いの精神などがコムナルカで養われた。

 共同住宅はユニークなロシア的現象だ。現れたのは1917年の社会主義革命後。あらゆる住宅が共有の資産となり、政府が裕福な都市住民のアパートに同居人を押し込み出したのが発端だ。

 1920年代の破壊と荒廃の時代には、人々は、何とか食べ物にありつき生き延びるために、大都市に流入した。彼らは工場や企業、役所などに職を得ると、コムナルカの部屋をもらうことができた。面積でいうと、大人一人当たり10平米、子供は5平米(基準は時とともに変わった)。昨日の農民が革命前のインテリと同居し、“飯炊き女”が教授連と同じ浴室を使う。こういう暮らしは容易ではなかったが、階級差を認めない公式イデオロギーには合致していた。

 

共同生活の醍醐味 

 アパートのドアには住人の名前を書いた呼び鈴がいくつか並んでおり、ドアを入ると、玄関の間には、やはりいくつかの電力メーターがずらり整列。住人はそれぞれの使用料に応じて料金を払う。玄関には共通のクローゼットなどはなく、住人は自分の靴と衣類は部屋に持ち込んでいた。各部屋のドアは、共通の廊下にあり、ドア前にはそれぞれ玄関マットが置いてあった。廊下には自転車やスキー等が並び、壁には電話が取り付けてあった(部屋ごとに電話があるケースは稀だった)。

 浴室には洗濯用の盥や洗面器、様々な使いかけの石鹸などがあり、住人たちは、めいめいが自分の石鹸を使い、便座を使うように目を光らせていた。コムナルカをネタにした小話にこんなのがある。浴室で身体を洗っていた奥さんが、誰かが覗いているのに気がつき、怒鳴りつけると、その男はこう言った。「いや、別にあんたを見てたわけじゃなくて、誰の石鹸を使ってるかを見たかったのさ」

ラリーサ・ワシリエブナ、第二次世界大戦のレニングラード包囲生存者で引退した建設技術者。彼女は当時からずっとコムナルカで過ごしている。彼女の夢は自分用のバスルームで入浴することだが、これがかなうとは信じていない。=Max Sher from the book «East»/Anzenberger/FOTODOM.RU

 文化学者のイリヤ・ウチェヒンさんの著書『実録:コムナルカの暮らし』によると、トイレには、「使ったらきれいに!」、「便器に紙を捨てないこと」、あるいは単に「人の物を盗るな!」などと書いた紙が貼ってあった。こういう文句は、オフィスや食堂などの公共空間のほうがふさわしいように思えるだろうが、実際、コムナルカはそれと同様の公共空間だったのだ。

 廊下、バス、トイレなど共用される空間は、住人全員が時間割を作って順番で清掃した。時間割はみんなが見えるように、廊下に貼り出されていた。電線、コード、バス、トイレなどの修理は、やはりみんなで金を出し合って行った。こういう共通の仕事に参加しなければ、全住人を敵に回すことになり、アパートでの暮らしは耐え難いものになったろう。

 

「昨日の来客を皆が知っている」

数字あれこれ

9万1000

モスクワ市住宅政策局によれば、2011年現在のコムナルカの数。

約3000

年間になくなってくるコムナルカアパートの平均数。

約4万円

モスクワの一部屋の最低家賃

10平方メートル

大人1人当たりのコムナルカの面積。

 住人たちはしょっちゅう台所で、料理や食器洗いの際に顔を合わせたので、ここで言わば集会がもたれた。共通の問題の解決策を決めたり、特定の住人がみんなに迷惑をかけたり、“正しくない”生活を送っている場合に、その人の振る舞いについて話し合うこともあった。

 「僕のお隣さんたちは、昨日誰が僕のところに来たか知っている。彼らが知りたいのは、一昨日誰が来たかってこと」。かつてロック歌手のフョードル・チスチャコフは、「共同住宅」という曲でこう歌った。

 盗み聞き、誹謗中傷、羨望などは、いつも共同生活の道連れで、長年にわたる敵意の原因にもなった。時には、他人の石鹸に電線を忍ばせたり、自分の“敵”の煮立ったスープに洗剤を入れたりといった、ゾッとしない手口に発展することもあった。

 とはいえ、あからさまな対立になることは滅多になく、普通は、住民たちは何とか折れ合って、お互いに助け合った。他の住人の子供を預かったり、アパートの住人みんなで老人の面倒をみたり、就職の世話をしたり、不如意のときに金を貸したりもした。もし住人同士の関係が良好なら、若い家族の赤ん坊を一晩預かったりもした。例えば、夫が長期出張から戻ったときに、こうやって夫婦水入らずの時を過ごさしてやったわけだ。

 このように、コムナルカは社会的責任感を育てる以外に、助け合い、相互扶助の習慣をつけさせることにもなった。だから、アパートの古い世代は若い世代の“先生”でもあった。

 モスクワのコムナルカに昔から住んでいるイリーナ・カグネルさんはこう回想する。「革命前の高官が住んでいるアパートに、ぎっしり新しい住民を詰め込んだの。そうやって暮したもんだよ――労働者もインテリも一緒に。インテリの話を傾聴し、その振る舞いもよく観察した。そうやって、生活ぶりや趣味を学んだのさ。子供たちはこういう人たちの暮らしを見て育ったから、文化というものについて何がしかのことを学んだのじゃないかしら」

 

コムナルカは不滅です


コムナルカのインテリアの一部。=Max Sher from the book «East»/Anzenberger/FOTODOM.RU

 1950年代末からソ連では、大量のアパートが建設され、多くの人が自分のアパートを手にできた。自分のアパートが持てるなんて夢みたい、という人が多かった。モスクワっ子のマリーナさんは往時を思い出す。

 「祖父母は、スレテンカのコムナルカに長い間住んでいたんだけど、同居人は、驚くなかれ、40人はいたわね。ついに自分のアパートをもらったとき、祖父は台所の床に座り込み、壁にもたれていた――そうやって長いこと、静寂を思うさま味わっていたの」

 しかし、コムナルカからの引越しのピークは、1990年代に来た。もしコムナルカが都心にあれば、不動産屋は、一人当たりアパート一つという好条件でも交換したがったからだ。にもかかわらず、すべてのコムナルカがなくなったわけではない。今なおモスクワでは、コムナルカがすべての住宅、アパートに占める割合は、面積比で約2%。モスクワ市住宅政策局によれば、2011年現在、9万1千のコムナルカがあるというが、正確な数字は誰も挙げられない。

 それというのも、コムナルカ的な生活形態――つまりアパート丸ごとではなく、各部屋ごとの賃貸――は、安定した需要があるからだ。モスクワのアパートの家賃は、最低1ヵ月5万円はするので、誰もが借りるわけにはいかないが、一部屋だけなら、2万5000円からあるから、若者でも、他の都市から移住してきた人でも、手が届く人が多い。

 他にも、コムナルカが新たに出現するケースはある。とくに、離婚した夫婦が財産を分ける場合だ。さらに、モスクワとサンクトペテルブルクの住民の多くが、部屋を賃貸しして、その代金で生活しているので、これまたコムナルカの新世代を生む。

 法律の特異な規定も、コムナルカ存続の原因だ。一例として、4人家族がコムナルカに住んでいる場合、二部屋のアパートに移る権利を持つが、彼らはしばしば、コムナルカに住み続けながら、ワンルームのアパートをもらう選択肢をとる。理由は、古巣が都心にあって便利なことなど。以上のことはつまり、コムナルカはまだまだ存在し続けることを意味する。

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