ソビエト市民は物不足に慣れていた。共産主義イデオロギーは万人の平等を標榜していた。これはつまり、万人の基本的なニーズは満たされるべきだが、ぜいたくやハイレベルな生活は、公式には是認されないことを意味した。だから、高品質の品のすべて、とくに海外のアイテムは、それだけでもうぜいたく品であり、人々はそれを手に入れるために、相当な苦労を甘んじてなめた。
ソ連のアパートメント、1950年代
アーカイブ写真ソ連時代初期の1920年代から、多くの人々は、共同住宅(コムナルカ)、田舎の民家、さらにはバラックにさえ住んでいた。最も人口過剰な モスクワでは、アパートの建設は1940年代から加速され、1960年代には、ソ連指導者ニキータ・フルシチョフは、後に「フルシチョフカ」と呼ばれる廉価なアパートを国中に大量に建てた。
だが、単に不動産屋に出かけていって買うというわけにはいかなかった。合法的な不動産市場は存在しなかったからだ。もちろん国は、ほとんどの人が住まいを手に入れられると請け合った。そして、国の都市化が進んだ時期に、多くの者が大都市に移住させられ、そこでどんなアパートでもとにかく与えられれば、いちおう感謝した。でも、もしお金に余裕があって、まともなアパートを入手したいという場合は、どうすればよかったか?
共同住宅(コムナルカ)の台所
ニコライ・ニキーチン/TASS工場や研究機関などの職員が協同組合をつくり、それに国が、アパートを建てるためのローンを与えることはあった。協同組合のメンバーは、月賦を払い、アパートができたら、それを手に入れ、ローンの全額が返済されるまで(住宅ローンのように)、利子なしで支払いを続けた。
しかし、アパートは協同組合の財産であり、売ろうとしても、組合のメンバーにしか売れなかった。おまけに、協同組合はソ連の全住宅の10%以下しか所有していなかったので、ソ連市民の大半は国からアパートをもらうために、「行列待ちした」。
大都市では、それはまさしく長蛇の列となり、自分の番が来るまで何年も待たなければならなかった。とはいえ、少なからぬ人が私的な「関係」を使って順番を早めることができた。要するにそれはコネであり、住宅委員会やそれより上のレベルに友人がいるようなケースだ。担当職員に賄賂を払って、アパート入手を早めようとする場合もあった。
VAZ-2101
ドミートリー・ドンスコイ/Sputnik自家用車を買うと、かつてない自由を手にすることができた。4つの車輪の上は、完全なプライベート空間となったからだ。ソ連市民が一人でいられることはめったになかった。子供と親戚と隣人と顔を突き合わせるコムナルカ(共同アパート)に住んでいる者が多かったので。自分の車を所有すれば、ガレージで他の車の持ち主と付き合ったり、チケットを買わずにどこにでも行くことができたし、ほかにもいろんな良いことがあった。
1970年代には、車の値段は約5000ルーブル。ところが、1ヵ月の平均給与は約100~150ルーブルだったから、2人の勤労者がいる家庭だと、4〜6年かけてようやく車を買うことができた。しかし、車のショールームはなかったので、まず、自分の職場の労働組合で順番待ちのリストに署名する必要があった。
ついに自分の順番が回ってくると、車のモデルと色を記したバウチャーを受け取る。買い手が実際に自分の車を目にすることができるのは倉庫でだ。ただし、順番待ちは、当該の運営者によって操作される可能性もあった。それはつまり、その労働組合を管轄している行政官である。裕福な人は、賄賂によって順番を繰り上げるチャンスがあった。
ユールマラのビーチ、ラトヴィア
ヤコフ・ベルリーネル/Sputnikソ連のすべての労働者は毎年28日間の休暇を取っており、誰もが海に行きたいと思っていた。ところが、ソ連のリゾート地やサナトリウムが1年間に受け入れられる数は、約85万人にすぎなかった。だが、ソ連の人口は1億2000万人以上だったから、南方の日差しを満喫できたのは10%以下ということになる。
休暇バウチャーは、労働組合事務所を通じて配られた。自腹を切って家族連れで海に行くと、2〜3ヶ月分の給料がかかった。これはちょっと高すぎる…。
ライーサ・ゼムニュホワさん(86歳)は、ソ連時代に石油工業省に勤めていたが、ロシア・ビヨンドにこんな話をしてくれた。良いリゾート施設に行くには、2〜3年も待たなければならないことがあったが、そういう所には、運動、入浴、吸入、日光浴などの健康回復スケジュールがあった。ソ連の映画俳優や歌手の出演もあり、ダイエットは、モスクワの食料品店が提供するものよりはるかに優れていたという。
国はバウチャーの費用の70%を補填した。安価な郊外のサナトリウムでの休暇を申し込むこともできたが、その条件は平均的なものだった。では、海外での休暇はどうだったろうか?
ソ連観光客、ハバナ
セミョン・マイステルマン/TASSほとんどのソ連市民にとっては、海外旅行は夢のまた夢だった。第一に、たいていの場合は高額だった。第二に、やはりほとんどのケースで、ソ連の秘密警察「KGB」は、海外旅行の希望者を綿密に調査した――ひょっとして、外国のエージェントやスパイになりはしないかと疑って。だから、外国旅行の申請はだいたい拒否された。もちろん、国の高官などは話は別だが。
「私の夫は党に強力なコネをもっていた」と、ライーサさんは回想する。「彼はいつも、外国に出張する際に助けてくれる人を見つけることができた。私たち夫婦はミャンマーで数年間働いたし、その後彼は何度もフィンランドを訪れている」
ソ連市民は、海外で働くと、外貨ではなく、一定の金額に相当する「小切手」を受け取った(ソ連当局は国内に外貨を流通させたくなかったので)。 モスクワに戻ると、「ベリョースカ」と呼ばれる特別な店で、その小切手と、希少品や入手不能な品物を交換することができた。
海外旅行できたのはごく一握りだが、その多くが、良いブーツ、コート、家具セットなどを必要としていたのである。
本のための行列、モスクワ
ボリス・カヴァシキン/TASSしかし一般庶民にとっては、いちばん手に入れにくかったのは、テレビ、掃除機、家具などの「複雑な」製品だった。これを入手するためには、またもや労働組合で申し込んで何か月も待ち、それから店に出向いて、箪笥や中国製ティーセットを注文するのだった。蚤の市や新聞広告は、投機であるとして禁止されていた。
だから、日用品に関しても、それを手に入れるためには、目を光らせていなければならなかった。といっても、特別なセールではなく、販売そのものの有無に対して。
モスクワ都心の国営デパートでは、女性の冬用ブーツや毛皮の帽子の行列が、1階を突き抜けて2階にまで伸びていることがあった。こういう大行列は、一日中途切れることなく続き、日暮れに解散して、また翌朝に、人々の手首に書かれた行列の順番を示す数字にしたがって並び始める(その順番を管理する「ボランティア」の手帳に書かれることもあった)。だから、希少品や高級品を得ることは、普通のソ連市民にとってはお祭りだったのだ!
*ソ連の日常生活についてもっと知りたい方は、「ソ連時代の6つの習慣」や「ロシア人が今でもよく使うソ連製品6選」。他の国とぜんぜん違う点なら、例えば、「ブルン、ブルルン! カーレース文化はいかにしてロシアにやって来たか」 をどうぞ。
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