1.パトリック・ゴードン(スコットランド出身の、ピョートル大帝の軍師)
パトリック・ゴードン(1635~1699)は、スコットランドのごく古い家柄の出である。ロシア・ポーランド戦争ではロシア軍と戦った。1661年、彼の武勇を見たロシア軍は、ロシア軍に招請。1687年には彼は、既に陸軍大将に昇進していた。しかし彼の名を何よりも有名にしたのは、ピョートル大帝(1672~1725)と彼との友情だ。
1689年、ピョートルが、摂政として実権を握っていた姉ソフィアから、権力を奪取しようと決心したとき、ゴードンは、ソフィアの右腕、ワシリー・ゴリーツィンの下で勤務していた。
だが、ピョートルが外国人の軍司令官たちを召喚して、姉との戦いでの支持を求めたとき、ゴードンは、ゴリーツィンの同意なしに、指揮下の軍隊を集め、若いツァーリのもとにはせ参じた。銃兵(近衛軍)は、ピョートルに敵対してゴードンの精鋭部隊を相手にすることを嫌った。結局、ピョートルは大きな流血の事態を招くことなく、姉から権力を取り上げることができた。
ゴードンはピョートルより40歳近く年長で、ツァーリは非常な尊敬をはらった。1690年に彼は、ゴードン宅を訪ねたが、これは、ロシアのツァーリが外国人を非公式に訪問した、ロシア史上初のケースとなった。18歳の若きピョートルは、モスクワのドイツ人区にあるゴードンの家を訪ね、あれこれ話し込んだ(たぶんビールも飲んだろう)。
ゴードンは、ピョートルの軍師格となった。彼は、ピョートルがつくったプレオブラジェンスキー、セミョーノフスキーの両連隊を訓練し、ロシアの最精鋭部隊に鍛え上げる。ゴードンはまた、砲撃、軍事工学、築城、軍の展開などの定期的な軍事演習を導入した。1694年には彼は、コジュホヴォ村(現在はモスクワ市内部にある)の近くで、大規模な軍事演習を計画して実施した。これは新しいヨーロッパ式連隊が戦闘ではるかに優れていることを証明した。
ゴードンは、1699年に亡くなるまでずっとロシアで暮らし、欧州最強の新生ロシア軍の基礎を築いた。ロシア軍は、やがて1721年に大北方戦争で、大国スウェーデンを敗北させる、なお、彼が残した日記は、17世紀軍事史の貴重な資料である。
2. エカテリーナ2世(ドイツ生まれのロシアの愛国者)
ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケ、のちの女帝エカテリーナ2世(1729~1796)は、北ドイツ(現在はポーランド領)の神聖ローマ帝国領内の小さな公家に生まれた。
ロシア帝国の女帝エリザヴェータにより、彼女の甥で帝位継承者であるピョートル(神聖ローマ帝国領内で生まれ、ドイツ名はカール・ペーター・ウルリヒ)の妻に選ばれる。
しかしゾフィーにとって、ロシアの未来は明るいようには見えなかった。1744年に、いよいよロシアへの旅支度をしたとき、銅製の水差しまで入れたほどだ。「野蛮な」ロシアに水差しがあるかどうか、彼女には定かではなかったから。
結婚してすぐにゾフィー(正教に改宗後はエカテリーナ)に分かったのは、夫が彼女といっしょに時を過ごすよりも、軍事教練を好んでいたこと。ピョートルはまた、帝位継承者としての責任に気を留めず、これは宮廷と政府上層部を怒らせた。これとは対照的にエカテリーナのほうは、この国をもっとよく知ろうと決心し、ロシア語とロシア文化を学び始めた。
もっとも、彼女は、教養豊かで洗練されていたかもしれないが、決して天使ではなかった。1762年にクーデターを決行して、夫ピョートル3世を廃し、自ら帝位に就く。ピョートルは、公式発表によると「持病の痔が悪化して急逝」したが、実は絞殺されたと同時代人は書き記している。
ところで、外国人だったエカテリーナは、ロシアの支配階層である貴族の機嫌をとらなければならなかった。
かつてピョートル大帝は、すべての貴族に国家勤務を義務付けたのだが、それを夫ピョートル3世が撤廃し、貴族を国家勤務から解放する勅令を出していた。彼女は、それを踏襲し、実施したのである。
とはいえ彼女は、夫とは違って、政務には非常に熱心で、彼女が導入した制度と施策の多くが、1917年のロシア革命までのロシアを形作ったといえる。
エカテリーナは、帝国を県に分け、また民間企業の活動を認めた(これは工場や製粉所の大幅な増加につながる)。 彼女は、 「啓蒙専制君主」を標榜しつつ統治し、戯曲、演劇などを執筆し、フランス啓蒙思想家モンテスキューの『法の精神』を焼き直して、政治的指針『訓令』を書いた。
彼女の国内政策は成功したとは言えず、経済危機と飢饉につながり、コサックのエメリヤン・プガチョフによる農民の大反乱を引き起こした。しかし彼女は、領土を拡大し(クリミア併合が最も有名)、海軍を再建し、貿易を振興した。
彼女はその治世を通じて、ロシアへの愛を強調した。彼女はロシア人のように見え、そのように振る舞い、鷹狩りのようなロシアの習慣も採用した。
彼女はまた、ロシアの男性も大いに好んだ。彼女に大変な数の公認、非公認の愛人がいて、何人かの子供が生まれたことは別に秘密ではない。
3. アリストーテリ・フィオラヴァンティ(クレムリンのウスペンスキー大聖堂を建設したイタリア人)
1415年頃にパレルモで建築家の家に生まれたアリストーテリ・フィオラヴァンティは、建物の修復や、運河や水門の建造を手がけていた。イタリアで建築家として有名になり、建設作業の監督にしばしば招かれた。
ところが、1473年に彼は、不運に見舞われた。贋金づくりのかどで告発されたのである。後に告訴はすべて取り下げられたが、その間に名誉も信用も失ってしまった。
そんなときに、モスクワを災厄が襲った。クレムリンのウスペンスキー大聖堂(生神女就寝大聖堂)が地震で崩壊したのである。時のモスクワ大公イワン3世は、問題を解決するために、特使を派遣し、ヨーロッパで建築家を見つけるように命じた。 依頼を受けたフィオラヴァンティは、有利な金銭的条件にも引かれ、すぐに同意した。
モスクワに到着すると、フィオラヴァンティは、低品質のレンガとセメントのために大聖堂が倒壊したことを発見。彼は、モスクワに新しいレンガ工場を創って、彼自身の技術を使ってレンガを生産した。また彼は、木の杭を打ち込んだ上に大聖堂を建設し、その際に、建物の全体的な構造も改善した。
大聖堂は4年後に完成。極めて堅牢で、竣工後最初の修復は、実に400年後の19世紀末に行われている。
フィオラヴァンティのもう一つの功績のほうは、これほど広くは知られていない。1485年、モスクワの、当時白い石で造られていたクレムリンの改修が始まった。フィアラヴァンティは、当時モスクワで活動していた唯一の築城術の専門家だったから、彼が新クレムリンのマスタープランを作ったことはほぼ確実である。
しかも、クレムリンの壁の構造の特徴は、ヴェローナのカステルヴェッキオ(ヴェッキオ城)によく似ており、イタリアの建築家によって築かれたことがはっきり分かる。
その後、フィオラヴァンティは、イワン3世のもとで軍事技術者として働き、橋を建設し、戦時には大砲の製造を監督した。
彼がロシアの年代記で最後に言及されるのは1485年である。明らかに、イタリアではなくロシアで、70歳ほどで亡くなったものとみられる。15世紀の平均寿命からすれば長生きであった。