「シュスタフ」の商品の広告
アーカイブ写真19世紀半ば、モスクワの商人、ニコライ・シュストフは、ブランデーを造り始めた。しかし、市場には既にさまざまな酒類が氾濫していたので、自分のブランドを食い込ませる独創的な方法を考案した。
シュストフは、いく人かの若くてハンサムな、そしてブラブラしているモスクワっ子を見つけた。そして彼らに金を払って次のようなことをやらせた。
すなわち若者たちは、素敵に着飾って、レストランに行き、豪華な食事とブランデー「シュスタフ」のボトルを注文したのである。店主は当然、そんな飲み物は聞いたことがないと答える。これが、金をもらった詐欺師どもが怒りをぶちまける口実になるわけだ。
イカサマ師は、このブランデーこそがロシア最高の酒であること、その在庫がないレストランなんてカスである云々とがなり立てる。食事には手もつけないが、ちゃんと料金は払う(その費用をシュストフがもったことは間違いない)。こういう一件の後で、オーナーはすぐさま大量のブランデーを注文する、という段取りだ。
だが、シュストフの息子はさらに親父の上を行った。彼は、皇帝自らがブランドを宣伝するように仕向けたのである。
1912年にシュストフ(Jr.)は、皇宮の復活祭のパーティーに招待された。ニコライ2世がホールに姿を現すや、シュストフは、宮廷の作法を無視して、陛下のほうへ飛んでいった。シュストフは貴族ではなかったので、跪いて、銀の盆に載せたブランデーのグラスを皇帝に捧げた。どぎまぎした皇帝は、プレゼントを拒まず、グラスを干して言った。「諸子よ、これは極上のブランデーであると言わねばなるまい!」。
この一件の後でシュストフの売上が急増したのは当然である。1914年には、ロシアのアルコール生産の30%を占めるにいたった。
ブロカルの香水の広告
アーカイブ写真ロシア帝国は、ヨーロッパの商人を多数引き寄せ、彼らはそれぞれに独創的な方法で顧客をつかんだ。まだ24歳だったアンリ・ブロカルは、1861年にロシアにやって来て、香水を作り始めている。
彼の最初のトリックは、子供たちを引き付けることだった。つまり彼は、文字をかたどった「教育石鹸」を作り出したのである。というのは、皇帝アレクサンドル2世の改革が始まり、小学校がロシア全土に現れ、都市部の住民の多くは、子弟の教育に熱を入れ出したからだ。彼はうまくこの風潮にのったわけである。
香水について言えば、当時、それは依然として富裕層のためのものであり、貧しい人々はシンプルな石鹸を買う余裕さえなかった。そこでブロカルは、貧困層をターゲットに、一つ10コペイカの安値で、石鹸、白粉、口紅を販売した。この戦略は図に当たり、彼に資産をもたらし、今や高級な香水の製造を始めることができるようになった。もっとも、これはまた別の広告方法を必要としたが。
ブロカルのオーデコロン
レスノイ市博物館1873年、ブロカルはうまく周旋してもらって、ロシア皇帝アレクサンドル2世の娘であるマリア・アレクサンドロヴナ大公女の、香水工場への訪問を実現した。大公女が到着したとき、造花の花束を贈呈したのだが、それぞれの花に特別な香水がついていた。 驚き喜んだ大公女は、自分の名前を商品のラッピングに使うことを許し、これがまた彼の信用を高めた。
彼はまた、「皇后のお気に入りのブーケ」という新しい香りも考案した。これは非常な人気を博し、現在のロシアでも「Krasnaya Moskva」(「赤いモスクワ」または「美しいモスクワ」)の名で製造され続けている。
シャポシュニコフのタバコの広告
V. A. タブーリンブランデーと香水は、ロシア市場ではかなり新しい商品だったので、こういう積極的な広告が必要になったわけだが、タバコについても同じことが言える。
ロシアの喫煙者は、主にパイプ、嗅ぎタバコ、手巻きタバコを用いていたが、19世紀半ばに、いわゆる「パピロースイ」を買えるようになった。これは、薄い紙で巻いたタバコに、中空の紙の管(つまり吸い口)を付けたもので、タバコの初期型だ。それを販売するために製造者は、詩を使って人々の注目を集めなければならなかった。というのは、17世紀から、食品や衣服のような単純な商品を初めて売り出すときの広告は、注意を引き、かつ覚えやすい(あるいは記憶に残りやすい)韻文を用いていたからだ。
そこで、アレクサンドル・シャポシュニコフのタバコ会社は、架空の人物「ミヘイおじさん」を考え出し、その短い詩を包装紙に載せるという形をとった。その詩は、例えばこんな調子だ。「タバコ『黄金の刃』は薔薇の花びらのようだ。香り豊かで優しい。こんなタバコは世界中のどこにない!」
シンプルで、気を引く。まさに庶民向けの広告に必要なものだ。ちなみに、この詩の本当の作者は、アマチュア詩人セルゲイ・コロトキーで、元兵士だった。軍にいたときに、農村出身の庶民と付き合っていたので、彼らの好みを知っていた。
シャポシュニコフはまた、広告キャンペーンのために、現在なら「フェイクニュース」と呼ばれる類のものも利用した。例えば、首都サンクトペテルブルクのある新聞に金を払い、こんな「センセーショナルな」ニュースを載せてもらった。
「ニジニ・ノヴゴロド付近のオカ川に、川に棲む竜が現れた。勇敢な水上警察が、この獣を追いかけ、頭に弾丸を打ち込んで殺した。さて、巨大なドラゴンが陸に引き寄せられると、頭から尾までこんな文句が記されていた。『吸うのは最高のオスマンタバコだけにしよう』」
こんなナンセンスな話を真に受けた人がいたかどうか分からないが、いずれにせよ滑稽で、人々にシャポシュニコフのラベルを覚えてもらうのには役立った。
絵葉書「将来のモスクワ」
アーカイブ写真チョコレート王、フェルディナンド・フォン・エイネムは、19世紀のモスクワで、ゼロからそのキャリアをスタートさせた。手始めは、小さな菓子屋であった。最初の飛躍は、クリミア戦争(1853~1856)の時期に、ロシア軍にシロップ とジャムを納入したときに訪れた。
間もなく、彼のチョコレート工場は、モスクワ川を挟んでクレムリンの真向かいに現れた。しかし、フォン・エイネムが有名になったのは、主にその広告のおかげで、それは今日のロシアでも記憶されている。
「エイネム」の箱
Little Histories彼は、ロシアで最初に、チョコレートの自動販売機を店に置いた。これは、10コペイカの小さなチョコレートを売るもので、子供たちに大人気だった。また、お菓子はブリキの箱入りで配達されたが、その箱は、中身を食べた後は、穀類や小麦粉を入れる容器として使われるのが常だった。だから、フォン・エイネムのブランドは、どこの家庭の台所にも行き渡っていたのである。
ブリキの箱入りのお菓子には、いろんなシリーズがあり、何か収集品になるようなもの、宝くじ、「モスクワの未来」を描いたカード、「チョコレート・ワルツ」、「パステル・ワルツ」と題した曲の楽譜などが入っていた。これらすべてを印刷するために、フォン・エイネムは小さな印刷所を買った 。
さらに彼は、2機の飛行船を借り、自分のブランドを描いて、モスクワとサンクトペテルブルクの上空を飛ばした。
ロシア革命の後、フォン・エイネムの工場は国有化されたが、生産は止まらなかった。ソ連時代には「赤い十月(クラースヌイ・オクチャーブリ)」と改名され、今も大人気のチョコレート・ブランドだ。
「赤い十月(クラースヌイ・オクチャーブリ)」工場
Uladzimir Filipau
*ソ連時代の奇抜な広告についてはこちらの記事をどうぞ。 現代の関連トピックなら、これをご覧ください。
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